二千九百六十三(朗詠のうた)短編物語「上杉謙信再考」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月二十五日(土)
第一章 謙信の養子から謙信再考へ
上杉謙信の急死後に、養子二人が戦を始めて、景勝が勝った。その事に問題はないが、戦の最中に和解の為に向かった謙信の養父を、景勝軍が殺害してしまった。前に、豊臣秀吉が咎めなかったのだからよしとすべきだ、と書いたことがある。しかし実際は許し難い行為だ。
偶発事件だらう。景勝は知らなかったのだらう。しかし、養祖父を殺害したとなれば、改易が普通だ。秀吉は道徳に無関心だった。本人が反道徳だったからだ。さうでなければ、農民から太閤までのし上がれない。
家康が、上杉を潰さなかったのは意外だ。或いは家康も、道徳に無関心だったのか。向羽黒の巨城を回避したか。

第二章 戦術に優れるも、戦略に劣る
武田信玄は、今川、北条と三国同盟を結んだ。今川義元が討ち死にした後に、謙信は関東へ出兵を繰り返すが、三国同盟に阻まれ、一進一退を繰り返す。このことから謙信を、戦術に優れるも戦略に劣る、とした。悪く云へば戦争屋であり、犠牲者を増やすだけだった。
謙信は、毘沙門天を信仰し、自身を毘沙門天の生まれ変はりと称しと云ふ。これは傲慢が過ぎる。戒律を軽視した日本仏法の弱点だが、責められ切り取られたから取り返す一面もあった。関東管領になった後は、思考が変化したこともある。

第三章 三国同盟回避策
謙信に、三国同盟を回避する方法はあっただらうか。まづ、信玄と同盟を結ぶ。信玄にとっては、三国同盟に重畳する四国同盟である。まづ信濃の川中島以北は春日山城に近いことを信玄に分からせ、進出しないことを約束させる。その代はりに斎藤龍興を、信玄と謙信で攻めた。
このころ謙信は、他国を攻めない方針を掲げたが、斎藤道三は嫡子義龍に敗死し領土を奪はれた。斎藤道三自身が土岐頼芸を追放したことも挙げ、家臣団が謙信を説得して、美濃攻めを了承させた。
美濃を攻めると、織田信長と激突する。このとき上杉軍は引き上げ、信玄は得意の一撃で信長を倒した。信長の強みは、一回目に敗北の後に、改良を重ねて二回目で勝つことだった。しかし一回目で敗死した。
このころ関東管領の上杉憲政が、謙信を頼って越後へ来た。しかし関東出兵は、三国同盟があるので不利だ。越後の御館を関東管領府と称し、三国同盟が劣化するまで留まってもらふことにした。

第四章 信玄死後
まもなく信玄が病死した。そして三国同盟は少しづつ崩壊した。武田軍は甲斐美濃尾張を領有し強大なので、勝頼とは同盟を維持した。その上で北条を討ち、関東管領を相模へ移した。そして、武田、今川、上杉の三軍で三好三人衆を追放の上、新将軍を立てた。そして今川、武田が京都の管領を交代で務め、上杉は関東管領を務めることになった。

第五章 戦ひを終へて
今回の物語は第一章に書いたやうに、上杉景勝の養祖父殺しを非難し、併せて謙信を第二章の「戦術に優れるも、戦略に劣る」で再考することにあった。ところが書き進むうちに、筆の勢ひが別の方向へ向かった。その間に、謙信のことをインターネットで調べたことが原因である。
謙信と信玄は、無駄な戦をしてしまった。その結果、信長が出て、秀吉が出て、家康が出てしまった。これも、世の中の期待とは別の方角であった。
世の流れ皆の望みと異なるを向くこと多く 信長がそして秀吉次に家康

反歌  家康に異なる見方一つあり家光の時異なる向きへ
家康の時代は、連合政権だった。家光で独裁になった。(終)

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