二千九百五十四(朗詠のうた)只見線各駅物語
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月十九日(日)
今回は「会津人が書いた只見線各駅物語」を借りた。個人の出来事が多く、内容も余計な事が多く、文章も冗長。紹介したい本ではなかった。しかし貴重な内容が散在するので、それを紹介したい。まづ「まえがき」に、十一年ぶりに復活した只見線について
1年間の沿線の観光客数は約27万3千人で再開通前より約5万4千人増えた。このうち鉄道(中略)は再開発前の約9倍の約4万7千人、道の駅を車で訪れた約22万7千人だった。県内の(中略)経済波及効果は約6億1千万円で、県と会津地方の市町村が負担している年間維持管理費約5億5千万円を約6千万円上回った。
(中略)これはあくまで推計で、沿線のあるお土産店経営者は「只見線に乗る人は増えたかもしれないが、駅に降りてくれる人は少ない。売り上げも(中略)ほとんど変わっていない」
県の発表は推計値ではあるが、それが原因ではない。沿線のお土産店の売り上げが増えないのは、鉄道で来る人は途中で降りず、自動車で来る人は道の駅にだけ寄る。更に、鉄道が開通したばかりなので、全線に乗る人が多い。途中下車するには、ダイヤ改正、見どころ紹介が必要だ。
本文に入り、会津若松駅では
現在の鶴ヶ城は、1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート造りで再建された天守閣と、(中略)2011(平成23)年(中略)黒瓦だった天守の屋根瓦が解体前の赤瓦に復元された。
会津本郷駅では、向羽黒山城跡について
全国屈指の最大規模を誇っている。(中略)上杉氏時代は、徳川家康に対抗し守りを固めるための大改修がなされた。
そして
城跡の南に左(さ)下(くだり)観音がある。
これは二冊の「極上の会津」で紹介した貴重な観光資源である。
美里町向ひ羽黒の古き跡 お城好きにはたまらずも 知らざる人に山道高し
反歌
古き跡鶴ヶの城は近くにて関はり探しこれもたまらず
関はりは、上杉謙信の御館と春日山城に似る。今風に云へば、県庁と自衛隊基地か。この巨大な城が関が原前哨戦で、上杉が徳川軍を追討する決断の、足枷になった。江戸幕府開府の後は、一国一城令により廃城となった。それが、幕末の奥羽越列藩同盟の敗北になった。
もし向羽黒の巨城があれば、西軍が巨城を目指せば長岡藩は背後を突く。西軍が長岡へ来れば、その前に巨城へ合流する。そもそも巨城があれば、西軍は来なかった。
会津塩沢駅では
「河井継之助記念館」がある。(中略)会津では「つぐのすけ」と読み、長岡市では「つぎのすけ」と読む。(中略)河井が息を引き取った医師・矢沢家の家は、1962(昭和37)年に滝ダムの建設で水没するまで残っていた。ダム建設に伴う移転の際、(中略)家の一部であった終焉の間は、河井の遺品や調度品とともに(中略)保存された。
終焉の家を移築の申請をしたが、開発側に拒否され、私財で終焉の間だけを移築したことも書かれる。そして
その後長岡市の寄付金50万円を元に『河井記念館』(いまの山塩資料館の建物)の開館を経て、現在の河井継之助記念館となる(以下略)
記念館は1973(昭和48)年に開館したが、1993(平成5)年に終焉の間を記念館内に移築し(中略)2008(平成20)年には(中略)長岡市に記念館が開館したのを機に、展示内容をリニューアルしている。
さて
年間を通しての記念館の入場者は(中略)コロナ禍の影響を受けたと思われる2020(括弧内略)年度と21年度は4000人に満たなかった。その前後も4500~5000人台後半に推移し、22年度は、映画『峠 最後のサムライ』が全国公開に先駆けて只見町で先行上映会が行なわれ、記念館創立50周年企画展「峠 最後のサムライ展」もあり、過去最高の7906人が来場した。23年度は、只見線再開通1周年記念として「戊辰戦争当時の仮想で只見線に手を振る」(会津塩沢駅付近)イベントを実施したが、入場者は5784人にとどまった。
小生も訪問したいが、只見線の本数が少なく、当分は行けさうもない。インターネットで調べると、今年は11月25日から豪雪地帯の休館になる。併設施設の「山塩記念館」は、当面の間、閉館とある。こちらについて書籍には
明治後期まで実際に山塩を生産していた資料が保存、展示されている。全国的にも山塩に関する資料は貴重で、精巧なジオラマと中学生が描いた絵で製塩の様子がよくわかる。(中略)1ℓ中の塩分は、海塩で食塩23g、会津で採れる塩(山塩)は16.5g(中略)これは(中略)化石水だからだ。
小生は今まで、山塩を知らなかった。ほとんどの人がさうであらう。山塩記念館も、河井継之助記念館と同じく将来性のある観光資源だ。
山じおは継之助とも背を並べ会津の町を興す源(終)
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