二千九百五十一(うた)(モリカケ桜フジ河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト裏安、三百四十九)高市支持勢力と維新の会を撲滅しよう
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月十九日(日)
デイリー新潮のホームページに
「“不義”で公明党を激怒させ、裏で学会をボロクソに…」 連立解消のウラに高市早苗氏「30年前の因縁」も
が載った。
「私が高市氏に初めて会ったのは、86年ごろのことだったと思います」
と話すのは、奈良県選出の奥野誠亮元法相の秘書を務めていた石崎茂生氏だ。
「ある日、衆議院第2議員会館に、地元関係者の紹介で奥野先生に面会を求めてやって来ました。用件は『松下政経塾を間もなく卒業する。政治家を志望しているので修業させてほしい』とのこと。笑顔を振りまき、強烈な印象だった(以下略)」(同)
女性秘書と石崎氏は“高市氏にうちの事務所に入られたりしたら大変だな”と感じたという。高市氏に対して奥野元法相は、
「『修業するなら政治の現場を経験した方がいいと思うよ』と言いました。そして(中略)自民党奈良県連会長(中略)に連絡し、『次の県議選の候補者にできないか』と要請、(中略)それから日を置かず、(中略)「高市氏は『私は国会議員を目指しているのであり、県議選には出ません』と回答してきました。私たちは気が付いていませんでしたが、(中略)それから浅川氏とは深い信頼関係を構築していたようです」(同)
最初から上昇志向の強い女だった。所謂政治屋志向である。
十月二十日(月)
高市氏が挑んだ最初の選挙は92年の参院選。自民党の奈良選挙区では、服部安司参議院議員(当時)の三男、服部三男雄氏も出馬を目指していた。どちらも後に引かず、後腐れなく公認候補を決めるため、当時珍しかった予備選挙が行われることに。(中略)「予備選に臨むにあたって、奥野先生は『負けた方は参院選には立候補しない』ことを求め、さらに『敗者は本選挙で協力する』と二人に確約させました。結局、予備選は服部氏の圧勝でした」(石崎氏)
しかし高市氏はその結果に納得しなかった。
「県連事務局は選挙事務の運営に瑕疵(かし)がないよう、細心の気を配っていましたが、彼女は(中略)約束をほごにして無所属で立候補。奥野先生は本選の応援演説で高市氏のことを『不義の人』と批判しました」(同)
96年10月、初めて小選挙区制の下で行われた衆院選では公明党が一翼を担っていた新進党公認で出馬し、(中略)2選。
「ところが当選後半月で高市氏は手のひらを返し、新進党を離党。自民党に移ったのです。そのため選挙で全面協力していた公明党・創価学会、特に婦人部から大不興を買いました」
石崎氏はそう語る。
悪質な女である。
十月二十一日(火)
「(前略)元々自民党に入りたかったのでしょう。この時の因縁が、今日に至る公明党・創価学会の高市不信につながっているのです」(同)
件の選挙で高市氏と戦った森岡氏もこう話す。
「新進党は公明党と一緒にやっていました(中略)公明党にしてみれば、いい気持ちはしてなかった(以下略)」
(中略)「高市も表ではいい顔しといて、裏では公明党や学会のことをボロクソに言っていた」(高市事務所関係者)
そして
「(前略)高市氏の行動を振り返ると、自らの目的を遂げるためには、世話になった人の恩を顧みない。(中略)でもそれは日本人の穏やかな気質にそぐわない面がある。だから結末でくじけてしまうことが目立つ(以下略)」(先の石崎氏)
積み重ねられてきた高市氏と公明党の約30年にわたる因縁……。今回の連立離脱劇は「歴史の必然」だったのかもしれない。
10月16日発売の「週刊新潮」では、公明党との因縁を含め、学生時代や政界入り後のエピソードを交えながら、「高市早苗研究」を掲載する。
自民党内高市支持勢力と維新の会は、消滅させるのが日本の為だ。すべての保守勢力と革新勢力は、団結しよう。(終)
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