二千九百四十三(うた)会津の五冊(四季彩々、その他雑誌と書籍)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月十二日(日)
図書館から五冊の本を借りた。一冊目は
奥会津・只見線四季彩々
である。作者の星賢孝さんは
只見線だけを撮影して25年。只見線を中心とした観光で奥会津を活性化させるべく(以下略)。
50年前に廃村で消滅した「霧絃峡の渡し」わ復活させ(以下略)
この本は小生に、写真美術の分野があることを気付かせてくれた。これまで、写真とは記録のためにある、と思ってきた。各ページには、解説文の下に小さく英文もあり、英語訳協力/会津若松市国際交流協会、とある。これも賛成である。海外からの観光客を呼べる。
最初の頁は両開きで、「三島町:会津西方駅~会津江原駅(只見川第一橋梁)」。左頁は、鉄橋を気動車二両が渡る光景が中規模、川が蛇行するのか頁の上でくの字に、しかしその上に森もある。そして右頁は森林のみ。枝と葉が鮮やかで黄緑、上部は常緑樹の濃い緑。90枚の写真と、表紙裏表紙の2枚が、どれも美しい。
二冊目は「週刊朝日百科歴史でめぐる鉄道全路線 磐越西線 只見線 磐越東線」。
「四季彩々」の直後に見ると、なるほど記録としての写真だ。SLばんえつ物語が二つののち、三つ目は旧、中山宿駅。スヰッチバックの旧ホームが枯草と共存する。会津旅行では、眼下に見ることができた。
中山宿は、西側の25‰の勾配上に移転している。駅の先は中山トンネルになっているが、(中略)すぐ横に古いレンガ積みの坑門が姿を見せる。1967(昭和42)年6月、郡山~喜多方間が電化された際、トンネルの多くが新線へ切り替えられた。
ここは疑問を持った。先日の旅行で、旧ホームはほとんど朽ちない。その理由は、小さい字の写真説明文にあった。
中山宿のスイッチバックは1997(平成7)に廃止された。
このあと
当時のホームが、通過する719系の列車を静かに見上げる。
こんな駄文を書いてはいけない。もう一つ
かつては東京と会津をダイレクトに結ぶ列車が走り抜けた磐越西線。
これは国語破壊行為だ。駄文しか書けないと、英語で誤魔化す。
喜多方からは岩越線の延長として、また新津からは信越線(括弧内略)の支線として双方から工事が進められ、14(大正3)年(中略)郡山~新津間が全通した。(中略)まだ上越線が完成していなかったため、(中略)アプト式を用いていた信越本線以外に東京と新潟を結ぶ路線はなく(以下略)
これは有益情報だ。
三冊目は、二冊目と同じ週刊だが、こちらは講談社から出版。谷川岳に三本のトンネルがあり、1931(昭和6)年の清水(9.7Km)、複線化で下り用に作られた67(昭和42)年の新清水(13.5Km)、新幹線用に79(昭和54)年の大清水(22.2Km)。この雑誌は題名すら上げないのは、最終記事に、茨城大学名誉教授なる男の書いた「"マッチ箱"の中の不純異性交遊」。こんな内容を旅と鉄道の雑誌に書いては駄目だ。
講談社と云へば、須藤公園の脇に、大日本雄弁会発祥の石碑がある。昭和30年代に講談社の書籍は、発行元に「大日本雄弁会講談社」とあった。
四冊目は、「只見線敷設の歴史」。既に会津地方はいろいろ調べた為に、役立ったのは明治年間に
北越鉄道による、直江津から長岡・新津を経由した新発田までの区間と、新津から沼垂までの鉄道敷設が決定するのである。(中略)沼垂は、一九五八年(昭和三十三年)に、手前に新潟駅が開設されるまで、信越線の名実ともに終着駅だった。その後沼垂は貨物駅を経て、二〇一〇年(平成二十二年)に廃止される(以下略)
五冊目は「只見線物語」。口絵の写真は、急行型気動車と一般型気動車の混結、急行奥只見と団体列車の急行編成の合計7枚と、SLが従来客車を牽引する2枚。急行編成が朝夕の通勤通学列車に使はれたものも前者に1枚含まれる。
今回の五冊は、一冊目を除き不調で、特集を組まない予定だった。しかし昨日、会津美里町の出店に出会ったのと、大日本雄弁会の石碑と久し振りに対面した。そのため特集を組むことにした。
崖下の須藤公園 訪れは小学生を始めとし 歳を重ねて昨日は約十回目訪れとなる
反歌
滝があり崖の上にも一部あり須藤公園六十五年(終)
メニューへ戻る
うた(一千四百八十二)へ
うた(一千四百八十四)へ