二千九百十一(うた)会津若松旅行記
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
九月七日(日)
妻が弘前へ行く用事があり、母を短期宿泊させた。その間を利用して、会津若松へ一泊二日の旅行に出掛けた。今回の目的は
- 福島や郡山ではなく、会津若松を応援
- 会津鉄道、野岩鉄道に乗る
- 会津武家屋敷へ行く
ホテルにチェックインのあと、旧道(大町通り)を国道との合流部まで南下し、国道(神明通り)を郵便局角まで北上し、旧道から帰った。ホテルは近くの温泉公衆浴場無料入湯券が付き、この温泉はお薦めだ。薬湯、高炭酸湯、露天風呂など盛り沢山だ。
次の日は、早朝に国道を郵便局角を左折して馬場通りと甲賀町通りで鶴ヶ城の手前まで。このあと国道と桂林寺通りでホテルに戻った。以上、同じ道を歩かず、街中を探索した。このあと六時半からホテルで前日に予約した朝食を食べた。千円でこの内容なら手ごろだ。
六時五十六分の気動車に乗り、次の七日町で降りた。駅前の阿弥陀寺は、御三階、奥羽越側戦死者墓で、観るところが多い。

七日町駅舎 阿弥陀寺

御三階

戦死者のお墓 斎藤一の墓 往路の切符
七日町通りから博労町通り、鶴ヶ城内を歩いた。落ち葉を吹き飛ばす肩掛けエンヂンの音がうるさいが、開場前の準備だ。普通の人が昨夕ホテルに着いてから、本日のそろそろ出掛けるかと云ふまでの間に、市内のほとんどを歩いてしまった。この機動性の高さが特長である。
鶴ヶ城は裏の赤い橋から出て、まちなか周遊バス左回り(ハイカラさん)へ8時50分に乗り、会津武家屋敷前で降りた。朝が早いので東山温泉駅までは行かず、ここが終点だった。
着いたのが9時4分なので、開場してゐたが、中には入らなかった。観光施設には行かないのが、小生の旅行方法である。バスの車内から武家屋敷を観るに留める予定だったが、終点なので降りただけだった。
隣は郵便局で、もう一軒先の会津料理店は廃業したが、ネパール博物館と書いてある。集客にどう役立てるかは難題だが、今までずっと営業をしてきたのだから、立派なものだ。古い木造の老朽化より、経営者の高齢化が廃業の原因ではないかと、見立てた。(9.08追記 インターネットを調べると、廃業ではないかも知れない。まちなか周遊バスの一日乗車券の割引施設にも含まれる。)
インターネットで調べると、料理の値段は、普通だ。古い大地主の豪邸を移築し、屋根裏を利用し2階、3階博物館の入館料は200円、食事をした人は無料とある。なるほどこれなら納得がゆく。あと信用度を高めて、会津料理店の集客に役立つ。
道路の向ひには「総本山」の旗が立つ。行ってみると、普通の料理店だ。総本店なのか本店なのかはよしとして、総本山を名乗ってよいのか。インターネットで調べると、「(土日祝)芸者の昼宴5000円 【会石】充静庵10000円~ 【学習旅行】桜膳1000円」とある。まあ昔からの流れを重視する会津若松なら許されるかな。
武家屋敷 会津料理にネパールの博物館と 料理店総本山が 温泉のふもとに並ぶ長生きの場所
反歌
建物が古きが似合ふ街並みは人が住むには極楽の土地
9時33分の右回り(あかべぇ)は乗らず、左回りに乗り飯盛山下を経由した。どちらのバスも武家屋敷の周辺は一旦、東山温泉駅まで行って折り返す。東山温泉と駅の雰囲気を車内から観た。屋内折り返しで天井が低いが、小型バスと中型バスを30分ごとに運行するさうだ。帰りは会津若松駅でバスをそのまま乗り継いで、七日町で降りた。そして七日町を散策した。
徳川幕府を倒した薩長幕府は、昭和二十年に大変な被害を出して崩壊した。薩長幕府に反対する事こそ、正しかった。会津若松は正しい側だ。
薩長の横暴防ぐ一手段列藩同盟負けるとも 八十年後幕府滅びる
反歌
奥羽越列藩同盟薩長の幕府が招く敗戦亡国
反歌
敗戦は即亡国に非ざるも八十年後現実と為す
七日町から会津鉄道と、東武から乗り入れる特急を乗り継いで帰宅した。
反薩長先の戦の敗戦で正しき事を証明し 新幹線を使はずに私鉄のみにて会津まで 二つの経路行く手を守る
反歌
会津にはこぞりて行かう観光に皆で乗車を会津鉄道(終)
メニューへ戻る
うた(一千四百五十)へ
うた(一千四百五十一の二)へ