二千八百五十九(うた)「アジア仏教史 中国編 Ⅴシルクロードの宗教」出土仏典
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月二十一日(月)
第五章「出土仏典の種々相」では
文献の出土はほとんど東トルキスタン---ターリム盆地付近にかぎられ、パミール以西では(中略)微々たるものである。(中略)中国的な文字文化の影響を比較的つよく東トルキスタンの諸都市がうけたため(以下略)
そして
用いられている(中略)言語は十七種、文字は二十四種(以下略)
と云はれ、
このうち仏典に関わるものだけを挙げると、
一、古代インド語(ブラーフミー文字、カローシュティー文字)
二、トカラ語A(中央アジア・ブラーフミー文字)
三、トカラ語B(中央アジア・ブラーフミー文字)
四、中央アジア・サカ語(中央アジア・ブラーフミー文字)
五、ソグド語(ソグド文字、マニ教文字)
六、古代トルコ語(マニ教文字、ソグド文字、ウイグル文字、ブラーフミー文字)
七、チベット語(有頭チベット文字、無頭チベット文字)
八、西夏語(西夏文字)
西夏語は、チベット語やミャンマー語に近く、中国語とはやや遠い言語だ。表意文字で、漢字に似る。
ブラーフミーは梵字と訳され、ブラフマ神(梵天)が造った文字と伝説は言うが、(中略)セム文字(括弧内略)に起源をもつ。
さて
アショーカ以後、西北インド(今日のパキスタン北部、ガンダーーラ地方)を除く全インドでこのブラーフミーが標準文字として一般化したが(中略)南インドでは丸みをもった文字に変形し、やがて東南アジア系(セーロン、ビルマ、タイ、カンボーディアの諸文字)へと発展し、(中略)中央アジアに関わりをもつのは、北インド系(中略)に限られる。
クシャーナ朝時代は装飾的になり、グプタ朝時代は
一層流麗な文字に変わった。(中略)チベットでは(中略)このグプタ文字を模してチベット文字を作り出したのである。(中略)このグプタ・ブラーフミーは中央アジアを経由して、中国・日本にも悉曇しったん(シッダン)文字として伝えられ、今日にいたっても卒塔婆などに用いられている。
敷島の卒塔婆に梵字悉曇字ときどき出会ふ漢字と並ぶ
七月二十二日(火)
尊い仏陀の教説は梵語によって伝えられるべきであると、バラモン出身の比丘が提案したのに対し、釈尊は「それぞれ自分の言語で」それを語り伝えるべきであると答えている。しかし仏教が広範な地域に伝播するにつれ、各地の仏教徒間の言語の不統一は種々の不便(中略)を解消するために、仏教徒の共通聖典語であるパーリ語をつくり出して行くのである。
問題点を赤色にした。釈尊は半マガダ語を話し、西インドの人たちからスリランカへ伝道されたので、その方言になったのが、パーリ語と云はれる。これは中村元説だが、この本の出版された昭和五十年にはまだ一般ではなかったのかも知れない。
パーリ語は今に伝はる聖典語 元は西部の口語からスリランカへと伝道し 仏陀の話すマガダ語と少し違ふも貴重な言語
反歌
パーリ語は世界唯一残された仏陀の言葉今に伝へる
ずっと先へ飛び
トカラ語には二種の方言が認められる。(中略)別個な独立した相親しい二言語と考えることも可能なほど、(中略)大きな較差が認められている。(中略)A語はカラシャール(括弧内略)を、B語はクチャ(括弧内略)を本拠とする通用語であった。
遊牧の民のことばの入れ替はりその激しさは仏とともに(終)
「初期仏法を尋ねる」(百七十四)
兼「良寛和尚と初期仏法を尋ねる」(百七十六)
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