二千六百四十六(うた)近江旅行記外伝
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
二月一日(土)
琵琶湖疎水を見たが、水が流れてゐない。帰宅後に検索すると、京都市の上水道は、ほとんどを琵琶湖疎水が占める。だから停止するはずがない。玉川上水や利根大堰を想像してしまったが、琵琶湖疎水は静かに流れて流れが判らなかったやうだ。
しかしそれだけだらうかと調べると、第二疎水は琵琶湖からトンネルで流すことが判った。つまり開架の水路に二つ水門があるのは、連絡用か。そして撮った写真を見ると、やはり流れてゐないやうだ。第二疎水だけを使ひ、第一疎水は工事中か。
今まで、京都市の水道は淀川(の上流の宇治川)から取水するのかと思ってゐた。また、琵琶湖疎水に発電の機能があることは知らなかった。旅行をすると、知識が豊富になる。
大阪市などの水道は淀川から取水するが、琵琶湖に五つの下水処理場が放流する上に、八つの下水処理場が淀川上流の三つの河川に放流する。淀川河川管理事務所の資料によると下水混入率が、大阪(淀川)は10.9%、東京(荒川、多摩川、江戸川等)は6.7%、名古屋(木曽川)は1.7%。大阪は、東京と比べて突出はしないし、下水処理水のBODやCODはかなり低い。一方で、窒素やリンは高い。夏に藻の影響を受ける原因である。これも、今回初めて知った。
淀川は十に一つは汚きの水を浄めた物含む 藻が繁れるは汚きを違ふものへと変へる故 悪くは無きも臭ふは悪し

反歌  汚きを吸ひ育つ米美味しきと似て藻が繁る此れも尊し
三井寺は既に閉門だったので、外から観るに留めた。戻る途中、びわ湖浜大津駅の近くで、気が付かないほど僅かに雨が降って来た。宿はすぐ近くなので、コンビニで夕食を買って戻った。

二月二日(土)
朝は雨降りだった。いつもなら行く先の天候を調べるが、今回は晴れだらうと油断した。傘は無いが、コンビニは近いので走って往復し、ほとんど濡れなかった。
天気予報では、雨は八時までだ。JRの大津駅まで歩けないほどの雨なら、びわ湖浜大津から乗る。しかし歩ける程度の雨なので、JRまで歩いた。微かに湿った程度だった。
坂本で公(く)人屋敷(旧岡本邸、入場料100円)を観た。公人は、僧籍があり、苗字帯刀し、年貢の取り立てなどを行ふ。つまり寺領における武士である。戦国時代までの僧兵が、江戸時代になり存続を許される訳がない。そこで僧籍は持つものの身分は武士と同一にしたのであらう。
それに対し、三井寺、延暦寺、日吉大社は、外から観るに留めた。理由は三つとも異なる。三井寺は昨夕で、入場時刻を過ぎた。延暦寺は、ケーブルカーでわざわざ登山するほど時間が無かった。日吉大社は、前まで行って戻り、その理由は寺社を観たい理由がある場合以外に入場料を払ふと、神仏への冒涜になる。分かりやすく云ふと、神仏分離と僧侶妻帯した寺社は観たくない。悪いのは、明治初期の薩長である。
近江今津で降りて、琵琶湖周航の歌資料館へ寄った。加藤登紀子の歌が流れ、なるほど民謡みたいに音程を少しずらした所から入るのが合ふ、と思った。
作詞者は信州岡谷(当時は諏訪郡湊村)出身、作曲者は新潟(当時は中蒲原郡小合村)。信州は母の出身地だし、新潟は下の子とお嫁さんの大学があり、お嫁さんが越前出身なので、我が家の先祖はその隣の近江だと云ふことから、前回と今回の近江旅行になった。だから一旦は喜んだ。
いろいろな歌手による琵琶湖周航の歌を聴くことができる。時間の都合があり、小鳩くるみの歌だけを聴いた。音程を外したところから入ることがなく、かう云ふ歌ひ方も加藤登紀子と並んでよいではないかと感じた。
異変が起きたのは、そのあとである。この歌は「ひつじぐさ」の曲を流用したものだった。当時は西洋の曲に日本の歌詞をつけることが流行ったから、問題はなかったのだらう。そして作詩者は二十六歳、作曲者は二十四歳で病死した。互ひに面識はなかった。この歌が流行ったのは、戦後だ。
とは云へ、批判の目で歌詞を読むと、この歌は学生歌でもボート部でもない。一番の「さすらいの」「志賀の都よ、いざさらば」から、琵琶湖のさすらひである。牧水と同種である。
一番の「われは湖(うみ)の子」は、明治時代に作られた文部省唱歌「われは海の子」に酷似する。おそらく真似であらう。元は「われは水の子」だった。「われは湖(うみ)の子」のほうが良いが。
湖へ行く途中に、移転前の琵琶湖周航の歌資料館があり、閉館はしたが歌を流してゐた。貴重な機会に巡り合へた。なるほど湖の途中なら、多くの人が立ち寄る。途中から少し離れれば寄らないから、看板の意義が分かった。
湖西線から北陸線(から、そのまま乗り入れて東海道線)で、近江八幡に着いた。八幡堀は説明に、かつて琵琶湖に繋がってゐたが切り離され、悪臭がするやうになり埋め立てが計画されたが、有志の反対で保存されたとある。別の資料には、琵琶湖と繋がるとある。後者は、西之湖経由の意味だらう。東西に繋がる八幡堀のうち、西側は行き止まりになり、そのため排水が流れず、汚染したのだらう。
近江八幡の街は、豊臣秀次に肩入れする。街と近江商人の誕生は、秀次の功績だとする。しかしそれでは全国にまでは広まらないから、安土の城下町で営んだ商人が近江八幡へ移ったと考へるべきはないだらうか。
検索すると近江商人には、西武鉄道、髙島屋、白木屋(東急百貨店に吸収)、伊藤忠商事・丸紅、住友財閥、三井財閥、日商岩井とニチメン(現、双日)、ヤンマー、日清紡、東レ、ワコール、西川、武田薬品工業、帝国水産(現、ニチレイ)がある。

二月三日(月)
米原で乗り替へるときに、駅弁を売ってゐた。撤退の報道を読んだ、と云ふと、今月末までださうだ。机の上での販売だ。いかにも駅弁らしい。一つ売り切れで四つの中から選ぶのだが、小生の後ろに独り並んだので、速攻で一番安い牛肉弁当(込、1280円)にした。

他の種類は、井筒屋のホームページから駅弁の写真を借用した。駅弁撤退の後も、そのほかの事業での活躍を期待したい。

(終)



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