二百五十三、座禅瞑想19年(仏道から向坂逸郎まで)
平成二十四年
四月五日(木)「総持寺座禅会」
今の会社に転職したときに住居も横浜に引つ越した。東海道線の窓から総持寺の大きな本堂が見へる。訪問し日曜座禅会に参加するようになつた。日曜座禅会は3年前に廃止になり、代はりに月に一回指定した日に行ふようになつた。会費が200円から500円に値上がりした。
500円でも安いが、以前の日曜座禅会のほうがよかつた。日曜座禅会の変遷は日本の戦後の劣化の歴史と重なる。
四月六日(金)「近年の英語教師の傾向」
二十年前に総持寺の信徒指導の東師はたぶん英語教師を定年退職した方だと思ふ。田舎では寺院だけでは生活できないので役場に勤めたり教師をする方が多い。定年になつたので大本山から頼まれたのだろう。総持寺は外国人が多いので英語を使へる僧侶を選んだのであろう。温厚でいい僧侶であつた。或るとき曹洞宗の東師の著書を読んだ。「そうか、あの僧侶は実は非凡なのだ」と驚いた。しかしよく調べると東師は二人ゐて、書籍を著したのは宗務総長を務めた東師のほうだつた。私は総持寺指導僧侶の東師は気に入つてゐた。大学者ではなくても温厚に信徒を指導してくれる僧侶こそ本当の僧侶なのだろう。
鎌倉の円覚寺だつたか建長寺でも、英語教師を定年退職した僧侶が指導してくれて親切でよかつた。しかし近年はどうも英語教師がよくないように思ふ。中学の卒業記念の寄せ書きなどに英語で書く人が多い。もちろん一人くらいゐるのは構はないが皆が皆、英語で書くことはない。或る寺院の数年前の座禅会で指導教師がやたらと法話にカタカナ語が入るので気になつたが、そのことはまだよい。問題は話自体に中身がない。中身のないのを英語でごまかしたのではないかと疑ひたくなる。
四月七日(土)「上座部仏教の瞑想」
東師がゐなくなり、指導僧侶が何回か交代したと思ふ。このころは私は5年に一回参加するくらいだつたから、何回交代したかは判らない。しかし戦後の文化不連続を痛感した。東師は戦前生まれで年配なのでよかつたが、カタカナ語を連発する僧侶の法話は私には合はなかつた。総持寺もその後、毎週日曜の座禅会を廃止して、月一回に変へた。これが5日に紹介した内容である。新しい形式になつてからはまだ参加してゐない。代はりにミヤンマーの僧侶の瞑想会に参加するようになつた。
座禅と瞑想は同じものである。曹洞宗や臨済宗は中国から日本に伝はつたから「座禅」と漢字で書き、上座部仏教国の用語では瞑想と呼ぶ。
四月八日(日)「19年で40回」
同時進行中の「二百五十二、スポーツセンター20年」と同じで座禅瞑想会も年に2回くらいである。総持寺が15回、その他の曹洞宗臨済宗寺院が15回、上座部仏教が10回、北山本門寺系布教所が4回である。
北山本門寺系布教所といふのは会社の近くにあり、上座部仏教の読経は瞑想の手段といふ論法で回数に計上した。北山本門寺は戦時中にX宗と統合し現在に至る。X宗の宗規で宗務院公認の布教所を結社と呼ぶ。結社の登録をするためには世話人が3人必要なため、私と立憲養正会の幹部の方が世話人になつた。立憲養正会は国柱会が分裂して三つになつたなかの1つで、戦前戦後を通じて国会議員を獲得した日本で唯一の政党である。
立憲養正会は右翼団体と書かれることが多い。私は右翼だとは思はない。そもそも右翼、左翼といふ分類自体が米ソ冷戦時代の遺物である。あるとき私が石原莞爾に言及したところ、この幹部が「石原莞爾は右翼だ」と言つた。このことからも立憲養正会は右翼ではないことが判る。そして石原莞爾と浅沼稲次郎、稲田隆三、市川房江の関係を話し右翼ではないと説明した。浅沼稲次郎は社会党委員長、稲田隆三は社会党左派、市川房枝は婦人運動家である。
余談だが菅直人は市川房枝さんから信用されなかつた。週刊現代(平成22年6月26日号)で三宅久之氏が次のように語つた。
私の友人のお姉さんが市川さんの秘書をしていたんですよ(中略)「菅直人のことはよく知っているんでしょう?」と聞いたら、彼女いわく、「市川先生からは『菅さんには心を許してはいけませんよ』と言われました」。
市川さんの著書「私の国会報告」にも次の記述があるそうだ。
「菅氏は1976年12月5日の衆議院選挙の際、東京都第7区から無所属候補として立候補した。このときは立候補をしてから私の応援を求めて来た。そのとき推薦応援はしなかったが、50万円のカンパと秘書らが手伝えるように配慮し、「自力で闘いなさい」といった。
ところが選挙が始まると、私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異なっていた。」
このような男の言ひ始めた消費税増税をなぜ野田は引き継ぐのか。野田の顔つきは時代劇に出てくる悪代官そつくりになつた。国民のことが頭にないからだ。
四月九日(月)「明治維新以降」
明治維新の後に僧侶は妻帯するようになつた。妻帯して百年以上を経過するからすぐに禁止するのは現実的ではない。しかし世襲により僧侶の質は低下する一方である。将来廃止するための方策を立てるべきだ。
だから私と現在のX宗はいつまでも親和できるとは思つてゐない。現に布教所の僧侶と中山X経寺を参拝したときに、露骨に嫌な顔をする信徒がゐた。きつと寺族(僧侶の家族)なのだらう。私が結社設立時の世話人を引き受けたのは、作家XがX宗寺院建立の賛文を書いた故事に因む。作家Xは國柱會(分裂前)所属でありX宗とは無関係だつた。
國柱會自身が明治時代に合わせたものであり、特に天皇を西洋の皇帝や天主にしようとする主張には抵抗がある。しかし田中智学の僧X仏法の解釈や西洋文明への批判は鋭い。智学の死後に分裂した各団体は世間からはほとんど忘れられた。立憲養正会も衰微する一方である。北山本門寺系布教所と立憲養正会のホームページをそれぞれ立ち上げて衰微を食い止め微増状態まで持つて行くことが、縁のあつた私の使命かと考へてゐる。しかし本人たちがなかなかその気にならず困つてゐる。
四月十日(火)「向坂逸郎」
社会主義協会の向坂逸郎は、社会主義を達成するには社会主義のことばかり言つてゐたのでは駄目だと言つた。社会主義以外を考へる人が多ければ社会党総評ブロツクは解体せずに済んだ。私のホームページくらいはやるべきだつた。
向坂逸郎も後には考へが硬直した。硬直化した後の社会主義協会と社会党左派との違ひは、社会党左派が国民の文化に根差したのに対して、後期の社会主義協会は西洋文化に根差した。文化断絶と言つてもよい。これは新左翼も同じで、新左翼も社会党支持で明らかなように世代の断絶がなければ本来は社会党左派として活躍した人たちであつた。
四月十一日(水)「世代間の文化断絶」
敗戦による世代間の文化断絶は、自民党関係者にも現れる。しかし社会党のほうが影響は大きかつた。野田の「ネバー、ネバー、ネバー、ネバー、ギブアツプ」発言に見られるように、米英のすることは何でも正しいと思ひこんだ連中が増加した。そして社会党は解体した。代はりに民主党拝米新自由主義派といふ自称勝ち組が現れ、昨今の消費税騒ぎに至つた。
文化の断絶を防ぐには、天台、真言、禅など仏道を学ぶのが一番よい。昔の文学や歴史を学んでもよいが、ここ二十年ほど学者の矮小猿真似化が進んだ。日本の古典を発表するのに「アメリカの学者xxxxによると」と書き始める連中が多い。
儒教を学んでもよい。しかし支配者にとつて都合のよい解釈が長い間に入り込んだから注意が必要である。神道を学ぶときも注意が必要である。神仏分離の歴史は浅い。仏道が寺請け制度で堕落したときには国学の意味はあつた。その後、神道も堕落した。
仏道を学ぶことは時間を越へた思考が可能となる。明治維新以後の国民に欠けたのは時間を超へた思考に他ならない。(完)
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