二百四十八、日本人は大連、旅順、瀋陽に行かう

平成二十四年
三月十九日(月)「大連へ」
妻が海外旅行に行つて来てよいといふので、昨年に続き単独で行つてきた。今年は大連、旅順、瀋陽である。最初はインドに行かうと妻とインターネツトで探した。しかし高い。他のアジア各地も韓国を除いて高い。中国の安い旅行を見つけた。それが大連だつた。安い代はりに祝日前の本日帰国した。帰国が今日と明日では値段に雲泥の差がある。
国民の生活が厳しいから消費税に反対と言ひながら海外に行く余裕があるのか、と思ふ人もゐよう。私の海外旅行は一人で行くときも家族で行くときも国内旅行と同じかそれより安いところしか行けない。これで消費税を上げたら国内旅行もできなくなる。

三月二十日(火)「昭和40年」
空港からの送迎車はニツコーホテルともう一箇所止まつた。どちらも立派な外観だつた。その後、私の泊まるホテルに着いた。目が2箇所に慣れてしまつたので古ぼけたビジネスビルに見へた。しかし室内は悪くはなかつた。日本の6000円クラスのビジネスホテルといつたところだ。国内では4000円クラスに泊まり慣れてゐるから快適だつた。
日本人はプラザ合意とその後のバブルで贅沢になりすぎた。中国は経済から見れば日本の昭和40年の少し前あたりである。日本だつて当時それほど不満があつた訳ではない。市内は路面電車とトロリーバスと自動3輪が走つてゐる。日本の昭和四十年ころにそつくりである。

三月二十日(火)その2「海外旅行」
海外旅行の楽しみは、一つにはその土地の人たちと同じ行動をとることにある。街を歩くだけでも楽しいはずだ。観光地を一つか二つ訪問することはよい。しかし観光地や博物館だけを巡るとそれは海外旅行ではなくなる。だから大連観光タワー、203高地、水師営、旅順監獄史跡、東鶏冠山、旧関東軍司令部には行かなかつた。これらを見て何か面白いだらうか。しかも大連タワー以外に行くのは日本人観光客ばかりだと聞く。現地の人たちが行かないところに行つてもあまり面白いはずがない。
1日目はホテル到着が昼過ぎだつた。夜まで時間があるので旧ヤマトホテル、旧関東逓信局、旧横浜正金銀行、旧日本橋郵便局、旧満鉄大連図書館、旧満鉄大連病院、旧満鉄本社、旧満鉄社員倶楽部、旧東本願寺、旧日本人街(南山路とハルピン路、上海路)を見て回つた。旧ヤマトホテルは50元(約750円)で館内見学ができるが明治期の建築で西洋の真似だから中は見なかつた。

三月二十一日(水)「大連の路面電車」
2日目は朝から雨だつたので、まづ経済開発区の工場街を歩いた。日系企業は中国と日本の国旗と自社旗の3本を入口に立ててゐる。日本のマスコミがときどき反日デモが起きたなどと大きく報道するが、中国人が反日といふのはまつたく嘘なことがわかる。中国人が反日だと偏向報道を流すことで日本を反中にして、両者を対立させようとするのはアメリカ元国防次官補Jナイの戦略である。

写真では会社名がアルフアベツトだが日系企業はどこも漢字でも会社名を表示してゐる。帝国電機だつたかそれと似た名前の会社だつたか漢字とアルフアベツトで「帝国電機」「TEIKOKU」と書いてあつた。これを見て帝国主義を連想する人なぞゐない。民主党新自由主義派の枝野が前に「中国に進出した企業は自己責任でやってもらわないと困る。」「経済的なパートナーシップを組む企業はお人よしだ」と言つたことがある。枝野の発言がどれだけ無責任かがよくわかる。

開発区から戻つたのちに、路面電車とトロリーバスに乗つた。大連には路面電車が走つてゐる。戦前に日本が建設したものである。古い車両と新しい車両がある。古い車両は2007年に車体を更新したが、元の形状で更新した。台車、運転台の機器は日本時代のものである。コントローラの文字は磨耗して読めないがかすかに三菱のマークが残つてゐた。三菱電機が製造したものかも知れない。
台車やこれら機器は東京の都電でいふと1000型や3000型のものと同じである。東京では昭和40年代にこれらの車両は廃止されたが、同じものが大連では今でも走つてゐる。

三月二十二日(木)「筆談」
3日目は早朝に大連駅に行つた。瀋陽までの切符を買うためである。しかし満席だつた。ここで初めて当日ではなくても切符を買へることが判つた。そして自由席切符はないことも判つた。ホテルは朝食付きなので切符を買つて一旦戻る予定だつた。
朝食を食べながら考へた。明日の切符なら買へるかも知れない。再び駅に行き翌日の切符を買つた。瀋陽北に12時5分に到着する。しかし帰りは13時20分発しか取れない。窓口の人が心配して14時34分発の各駅停車を取つてくれた。往路は特快で4時間20分、55元。帰路は普通で6時間半、28元。両方の列車を体験できてよかつた。
これらはすべて筆談で行つた。漢字を知つてゐるといふことは、少しの努力で筆談ができる。日本人は13億人と筆談ができるのにもつたいないことである。

三月二十三日(金)「瀋陽」
瀋陽に行つたら故宮、張氏師府、福陵、昭陵は見逃せない。故宮は清朝が北京に遷都するまでの宮殿、張氏師府は張作霖、張学良親子の邸宅である。張作霖は皇帝にならうとしてゐたことが張氏師府から判る。
時間がないから旅行前から故宮か張氏師府の一方だけを見ようと計画した。切符の都合で2時間半だがそれでも見ようとすれば見れる。しかし今回はどちらも寄らなかつた。いつかまた来て、そのときに時間をかけて見ようと思つた。
張作霖爆殺現場や南満州鉄道爆破現場にも行かなかつた。ヤマトホテルや203高地もそうだが近代のものは近くなら外観だけ、遠いなら行かない。代はりに現地の人たちと同じ行動を取る。これが私の海外旅行の様式である。今回も市内を見て回つた。吉野家で昼食を食べた。

三月二十四日(土)「旅順」
3日目は翌日用の瀋陽への切符を買つたのちに、バスで旅順に行つた。運転手が最初3元と指で示し次に5元と直した。距離からすれば5元が適切だから5元払つた。途中土煙が舞ひ上がる中をバスは走り、水師営といふバス停もあつた。それまで乗車時に料金を払ひ中扉から降りてゐたのに、突然中扉から乗車し下車時に前扉で払ふようになつた。ここから乗る人は2元、既に乗つた人も2元加算といふ仕組みである。日本でもこのやり方は取り入れると便利だ。
旅順ではデパートの電器製品売り場を見た。日本と違ひメーカ別且つ製品別に区画が分かれ販売員がゐた。例へば松下の冷蔵庫、松下の洗濯機といつた売場が別々にある。Panasonicと松下と両方書いてあつた。中国、韓国、日本、アメリカなど各国のメーカが入り乱れてはゐるが日本も善戦してゐた。日本のマスコミはさかんに中国の国内は反日だと印象付けようとするが、まつたくの嘘なことが判る。もつとも前原や枝野みたいな拝米新自由主義が政府高官になると政府間が一時的に悪化することもある。
港の見へる公園に入場した。日本人観光客も何人かゐた。5元づつ公園と資料館の切符だつたが、資料館がない。受付に聞くと鍵を開けてくれた。中国の観光客も多数ゐたが資料館には寄らないらしい。日露戦争の資料、写真と説明があつた。中国語は漢字を読めばほとんど意味が判る。中国語と英語が書いてあるときは中国語を読んだほうが早いし頭が疲れない。日本人は小学校から漢字を学ぶのだから中国語を読まないのはもつたいない話である。説明文の「アメリカが日本とロシアを操縦」といふ記述が印象に残つた。
公園の中ならよいが軍港の入口で写真を撮らない。これは鉄則である。撮らうとして警備兵に注意される中国人がゐた。海側から軍港、道路、旅順駅がある。駅の線路は4本で1本がホームに面し3本は入替用である。4本は道路中央で1本に収束し軍港の引込み線となる。
大連からの列車が到着した。機関車を切り離し道路中央に止まつた。警報機もロープもない。車は道路の残り半分を自主的に片側交互通行みたいに走り続ける。数分後に機関車は入換線を戻り大連方向に連結した。客車は長距離普通列車の間合い使用の10両ほどで乗客は全部で20人くらいだつた。1両2人ずつでがら空きだが軍港から多数が乗車することがあるのかも知れない。各車両に車掌がゐて乗車口に整列してゐた。
駅には共産党支部書記の写真と名前、その下に駅長の写真と名前、その下に駅員の担当職名と写真、名前が張り出されてゐた。列車が発車すると夜来香の曲が流れた。夜来香は中国生まれの山口淑子が李香蘭(テレビドラマ「李香蘭」へ)の名で歌つた。大連に着く手前で車掌が車内をモップで拭いた。各車両に乗務するのは日本でいふ車掌補だと判つた。
(日本でも以前は寝台車を設定するため車掌補といふ腕章を付けた乗務員が1両か2両に1人ゐた。寝台は後に電動式になり更に2段式になり、更に発車前に操車場で設定するようになり、車掌補は廃止された。乗務掛といふ乗務員もゐた。昭和四十年前半までは夏に昼間の急行に乗るとYシヤツで乗務掛といふ腕章の乗務員が検札に来て、難しい切符だと乗客専務といふ白のスーツの年配の乗務員が来た。その後、車掌長といふ職名ができて従来の乗客専務の上位者が就任し、乗務掛の一部が乗客専務に、多くは車掌補になつたと思つてゐた。しかし元国鉄乗務員のブログに、乗務掛は年数がたつと仕事の内容は同じで車掌補になり、試験を受けて車掌になると年数を経て専務車掌、車掌長になるとある。職種変更の記憶違ひかも知れないし正しいかも知れない。かういふことは部外者が調べると時間の無駄なので、JR関係者がきちんと記録しておいてほしい。)

三月二十五日(日)「瀋陽への往復」
4日目は瀋陽へ行つた。往路は特快(日本でいふ特急)で、電気機関車が牽引し空調用に電源車を最後尾に連結してゐた。発車すると旅順からの普通列車と同じように夜来香の曲が流れた。各車両の車掌が床をモップで拭いた。社内は禁煙だがデツキは喫煙可で、ときどき扉が開いたままのことがあるので、煙が入るのが不快だつた。
北京からは和諧号(日本の新幹線)が瀋陽、長春を経てハルビンまで走る。大連からの和諧号は建設中であちこち線路が完成してゐた。今回は特快が少なく瀋陽の滞在時間が少なかつたが、いづれ和諧号で北京から訪問したいものである。
帰路は普通列車でこれは一つの楽しみである。しかし瀋陽北に着いた列車を見て驚いた。車内は立つ人でいつぱいである。それなのにホームに多数の乗客がゐる。何とか無理に全員乗車した。東京のラツシユに慣れてゐるから乗ること自体は何でもない。問題は自分の席に行けるかだ。しかもかういふ状況で指定席の権利を主張してよいかどうかだ。周りを見渡すと権利を主張してゐる。私もがんばつて指定された席に行き座つた。満員のためボックス席の向ひの人との間にも人が入り込み大変だつた。瀋陽駅で少し空き鞍山でかなり降りた。
列車は内モンゴル自治区ハイラル発だから瀋陽に来るまでに丸1日走つたのだろう。乗客は人なつこい雰囲気でモンゴル族、農村地帯、中国人のうちのどの特長なのだろうと考へた。
おそらく3つとも当つてゐる。大連市内でも中国人は見知らぬ人でも話しかける。年配の乗客がゐるとすぐ席を譲るところを見て、日本はアジアで最低の道徳の国になつてしまつたことを痛感した。日本がここまで悪くなつたのはプラザ合意のときからである。

三月二十六日(月)「三船敏郎のお父さんの店」
5日目は午前11時にホテル入口集合なので、路面電車201の海之韻公園行きに乗らうとした。2日目に路面電車201に乗つたとき、途中の華楽広場行きだつたので、そこまて乗つて戻つた。そのとき前面の行き先表示板に「区201間」と書いてあり試しに乗つたので「区間」と書いてない車両に乗れば終点の海之韻公園まで行けることが判つた。しかし乗る時間のないまま5日目に至つた。
もつとも華楽広場で降りたあと、海之韻公園から華楽広場で逆方向に折り返す珍しい車両を見ることができた。バールで線路の分岐を反位にしたが中学生のときに一回見ただけでそのご都電は次々廃止になつたので、まさか再び見れるとは思はなかつた。
海之韻公園行きを待つたが5台連続で華楽広場だつた。この時期大連は立つてゐると寒い。だから乗るのは止めてロシア人街を見た後に連鎖街に行つた。ここにも1日目に行つた以外の旧日本人街があり三船敏郎のお父さんの店があつた。旅行ガイドを見たら偶然、目の前だつた。このビルの2階で写真館を経営してゐた。



三月二十七日(火)「中国の鉄道の特長」
日本では客車の発車時に前後方に衝撃がある。中国の客車は衝撃がない。特快は連結部の屋根の下に衝撃を防ぐ装置が付いてゐるからそれが理由だと思つた。ところが帰路は普通列車で装置がないのに衝撃がない。これは運転が上手なためだ。機関車はブレーキを客車とは別に制御できる。止まるときに機関車のブレーキを弱めれば連結器が伸びた状態で止まる。そのまま発車すれば衝撃がない。日本はたまたまそのように止まつても停車中にブレーキを緩めるから元に戻る。日本で三十年くらい前に客車が駅に着いた後に50cmくらい動いたことがあつた。1両あたり5cmでも後方の車両はそれだけ動く。
日本では客車は寝台列車くらいしか残つてゐないが、寝台列車も本数が激減した。1つは安いビジネスホテルの出現だが、もう1つは運転が下手なためだ。

三月二十八日(水)「昭和40年」
中国の経済は日本の昭和40年くらいだから、日本人から見れば不十分に感じることもある。特に車内がうるさいのと便所が汚いのは評判が悪い。経済以外にも、清朝が滅んだ後は長く軍閥の内乱が続いたことと、アヘン中毒患者が多かつたことと、最後は日本軍の侵略があつたことを考慮すべきだ。私は見聞を広めるため硬座(2等)に乗つたが、運賃が安いから海外旅行者は軟座(1等)に乗つたほうがよい。
途中で車掌が車内清掃をした。車端からゴミをほうきでかき集める。車両の反対側まで来るとゴミの山になる。それをゴミ箱に入れた。私は靴の中にゴミが入るといけないのでゴミの山が通過する間、足を上げたが他の乗客は平然としてゐた。日本の新幹線でかういふ清掃をやつたら大変なことになる。苦情が殺到して1週間でJRの社長は辞任に追い込まれよう。
日本では昭和40年頃までは市内に年一回の大掃除があつた。道路の中央にあちこちゴミの山ができて、小学生だつたから近所の友達と高さ1mくらいのゴミの山を駆け上つて遊んだものだつた。その記憶があるからかういふ清掃方法でも別に驚かない。

三月三十日(金)「車内にて」
大連から瀋陽までの特快は6人掛けで、私の後方のブロツクが私の席だつたが6人の団体だつたので席を替つてあげた。その6人が車内で民謡を歌い始めた。上手な一人が歌い、残りは手拍子をした。昔の日本の列車みたいでよかつた。発声法も日本の民謡に似てゐた。
音階はファとシがなかつた。ファとシは半音で本来は不自然である。不自然なものを子どものときから押し付けるのが日本の音楽教育であり、その行き着く先がコンビ二、牛丼屋、本屋の天井のスピーカーから流れるうるさい音楽である。あれは客の長居を防ぐためだが。

三月三十一日(土)「歴史を保つ観光都市」
中国は旅行者にとり天国である。まづ治安がよい。東南アジアだとスリ、アメリカだと殺人に気を付けなくてはいけないが、中国はその心配がない。十五年ほど前までの日本に似てゐる。しかも街に活気がある。これは日本の昭和四十年頃に似ている。
街路名が漢字だから見やすい。日本と略字が違ふので旅行の前に数日自習をすると読めるようになる。
何よりよいのは古い町並みが残つてゐることだ。ロシア街は古い建物を更新したが、中国国内からと思はれる観光客が写真を撮つてゐた。路面電車も車体は元のまま更新し、台車や運転台の機器は昔の物である。古い町並みを残すところに観光都市としての意気込みが感じられる。旅順も203高地、水師営など見どころが沢山ある。木造の旅順駅は現役である。
3月の気候は日本の真冬並みである。だから安く行くことができた。お金のある人は温かい季節に、余裕のない人は寒い季節に厚着をして行くとよい。私は中国語は話せないので3つのモードを用意した。中国語で話し掛けてくる人には英語で答へ、普通の会話は身振り手振りで済まし、込み入つた内容は筆談を用ひた。英語で話しても英語を解する中国人はほとんどゐない。英語で返してくれれば一回で済むから楽だが、話せないのはよいことだ。英語でアジア人どうしが会話することは帝国主義時代の残存である。

瀋陽に行く人は帰国の2日前までに行くとよい。私はやむを得ず帰国の前日だつたがもし列車が運休すると帰国に間に合はない。それより瀋陽は往復に時間がかかるから和諧号(日本の新幹線)完成を待つか、瀋陽に一泊すべきだ。
中国は貧富の差が激しいと感想を述べる日本人がゐた。古い住宅を見るとそう感じよう。これは非先進国全体に言へることだが、外資や外国の真似をした産業は収入が高いことによる不均衡である。先進国と称する国々が石油資源を浪費することによるひずみであり、人類の長い歴史から見れば古い住宅に住む人々が正常である。石油消費を止めれば世界中が古い住居と新しい住居の中間に収束することだろう。


メニューへ戻る 前へ 次へ