二百四十五、吾妻鏡読書記(労働価値説を鎌倉時代に生かす)

平成二十四年
三月三日(土)「今に続く昔の地名」
二週間ほど前から吾妻鏡の現代語訳を読み始めた。吉川弘文館から3年前に発行された。16冊のうち現在6冊目である。
読んでまづ目に付くことは今に続く地名が多く、これには感動した。例へば武蔵国泉は埼玉県比企郡滑川町和泉、武蔵国勝田(かちだ)は同郡嵐山町勝田と注が付いてゐる。
第4巻は奥州合戦である。奥州は今に続かない地名が多い。人口密度が少なかつたのかも知れない。廃絶した地名を近年復活させた例もわずかに存在する。しかしこれは止めるべきだ。古くからの地名を変へてはいけない。同じやうに今まで続いてきた地名を吾妻鏡や万葉の時代に戻すこともいけない。どちらも地名の廃絶である。

三月四日(日)「神仏分離」
寺社も今に続くものが多い。しかし明治維新のときに神仏を分離し、ほとんどの社は名称を変更した。箱根権現は箱根神社に、伊豆山の走湯権現は伊豆山神社に変はつた。鶴岡八幡宮にでX経を供養、両界曼荼羅を供養、放生会、伊豆山で大般若経の転読など、毎日のように載つてゐる。
現代の神社は宗教性が薄い。明治維新以前に戻すことが重要だ。まづ神社本庁を廃止する。次に神社と寺院を同一宗教法人にする。代表役員は住職と神主が交互に任命すればよい。主導権争ひの心配があるが、そのために総代がゐる。
寺院と包括関係にある各宗派(宗務庁)も将来は廃止し本山にその機能を移転すべきだ。

三月五日(月)「労働価値説」
この時代は領主と地頭の紛争が多い。それを頼朝が的確に裁く。この時代は戦が続いたから御家人を地頭に任命するのは意味がある。しかし戦が無くなれば寄生虫となる。そもそも荘園の領主も寄生虫である。
戦のときは武士に年貢の多くを配分すべきだ。戦が終つたら武士を帰農させるべきだ。荘園は開墾負担分を償却したら廃止すべきだ。国府や朝廷への租庸調は官吏を特権化しないよう増減すべきだ。
これらをきちんとしないから紛争が起きるし、既得権階級が生じる。この時代も労働価値説を用ひれば、戦は1/50に激減した。吾妻鏡を読んでつくづくさう思つた。

四月一日(日)「富士の巻狩と頼朝の死」
6冊目ではまづ富士の巻狩で曽我兄弟の事件が起きる。仇討ちののち兄は討たれたが弟は頼朝目掛けて走りより、頼朝は剣を取り立ち向かはうとするところを側近に止められ、その間に捕獲された。その後、源範頼の殺害、御家人の失脚、出家、殺害が相次ぐ。曽我兄弟は北条時政と懇意だつたから、時政が頼朝を暗殺しようとしたといふ説もある。「吾妻鏡」はその後三年一箇月の欠落を挟み、その間に頼朝は亡くなり、二代目将軍頼家が暴走を始める。
この当時の情勢は、今の民主党政権と似てゐる。頼朝は鳩山、暴走する二代目頼家は菅直人と野田、背後で操る北条時政が財務省である。

四月六日(金)「力の均衡」
頼朝が亡くなつたのちは武力による権力闘争が相次ぎ、北条家に段々と権力が集中する方向が続く。復元力が働かないため行き過ぎると益々その方向に力が働くためだ。同じことは江戸幕府にも言へる。関が原の合戦の後は、最初は連立政権であつた。しかし将軍は権力を握るから権力が次々に集まり、独裁で贅沢な形に収束した。

四月七日(土)「源実朝」
30年ほど前に読んだ学習百科事典に、源実朝は実権がなく和歌や蹴鞠や昇進にのみ興味を持つたと書かれてゐた。しかし吾妻鏡には実朝が決定権を持つ姿が生き生きと描かれてゐる。しかし途中から風向きが変はる。実朝が実務を取らなくなつたとも考へられるが、和田合戦で幕府の無力が明らかになり兵力を持つ者が実権を握るようになつた。そして北条が権力を握つた。 これ以降、吾妻鏡は実朝の悪い所を書くようになる。
北条義時が大江広元に「右大将家(源頼朝)は官位について宣下があるたびに固辞された。これは子孫によい運命が及ぶようにされたためである。しかし今(実朝の)御年齢はまだ壮年には達しておらず、御昇進はたいそう急である。」
そして大江広元が実朝を諌めた。実朝は「諫言の趣旨はまことに感心したが、源氏の正統は自分の代で途絶える。子孫が継承することは決してないだろう。ならば、あくまでも官職を帯びて源氏の家名を挙げたい」。広元は重ねて意見を申すことができず、すぐに退出してこのことを相州(北条義時)に申されたという。

その翌月には、実朝自身が中国の医王山を参拝するため唐船を作るよう命じた。相州(北条義時)、奥州(大江広元)が諌めたが聞き入れなかつた。船は完成したが、地形が唐船の出入りできる浦ではなく、浮かべることができず実朝は帰られ、船は空しく朽ちた。

吾妻鏡は実朝が暗殺され北条の幕府支配が確立した後に書かれたから、北条寄りである。それは実朝が「源氏の正統は自分の代で途絶える」で判る。このとき甥の公暁など一族が存命だからである。

四月十五日(日)「当主の劣化と役職の劣化」
第三代執権の北条泰時は源氏が滅びた後に京都から来た藤原家将軍にもよく仕へ人格高潔な人物として描かれてゐる。しかし泰時が亡くなつた後は、第四代執権経時により藤原家将軍は地位を追はれた。この時は将軍の嫡男が跡を継ぎ前将軍は鎌倉に残つたが、第5代執権時頼は前将軍を京都に強制送還させた。
このように見ていくと、世襲の当主は劣化する。江戸幕府も同じで第三代将軍当たりから極めて劣化した。しかし劣化するのは世襲ではない役職も同じである。会社の社長や政党の代表は総じて2代目、3代目と劣化する。
まづ権力が集中する。すると復元力が働かず益々集中する。同時に当主と役職が劣化する。これにより鎌倉時代は暗黒の時代となつた。他の時代も同じである。今でも同じである。(完)


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