二千二百九十五(和語のうた)真鶴町訪問記
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月八日(月)
毎月恒例のジパング切符旅行で、真鶴町へ行った。当初は、岬まで行く計画を立てた。バスが一時間に一本なので、歩いて行ける貴船神社までにした。今は桜の季節なので荒井城址公園にも寄ることにした。
真鶴駅で降りたあとは、すべて歩いた。昭和四十年代の日本を感じた。二十年程前に、福岡から旅行で東京へ来た人が、月島辺りの高層街をみて、ここは日本なのか、と驚いた話をされた。東京の高層街は異常だ。
東京の高層街を除いても、ここは懐かしい街だ。その理由は、帰宅後に地図を見て分った。真鶴岬は、県道が海岸側を岬の先端まで行き、山側を通って合流する循環型である。岬の先端へ行くには山側が近いから、海側は漁港へ行く車だけだ。日本は車が多くなり過ぎた。
もう一つ、真鶴ブルーライン(有料道路)がトンネルで岬を横断する。今回の旅行では有料道路が地下を横断することに気付かなかった。伊豆半島の東側へ行くにはこのトンネルを走るため、岬は落ち着いた雰囲気を保った。
真鶴は 車少なく落ち着いた町で住みよき所にて 旅で行くには楽しき園に
反歌
真鶴は乗り合ひ早く終はるため所選ぶか車を持つか
車が少なく落ち着いた街だが、住むには駅近くに住むか車が必要だ。ぜひ旅で訪れて宿泊してほしい。今回はまづ、荒井城址公園へ行った。しだれ桜が満開だ。池があり、落ち着いた公園だ。
次に漁港へ行った。観光案内所で、パンフレットを頂き、説明を聴いた。次回は岬の先まで行かうと決めた。町が小さくまとまると、観光案内所も親切だ。漁港を見ながら先へ進み、しとどの窟(いわや)を観た。かつては奥行きが長く、波が寄せた。関東大地震で隆起し、海岸から離れた。
貴船神社は見応へがある。まづ腰掛岩だ。石橋山合戦で敗れた頼朝が逃げる時に座ったとされる。元は別の場所だったが、工事で神社に移された。立てて石碑に見立て、平な上側が、前面を向く。その隣の、稲荷社は信仰心を感じる。元からあった稲荷社に、各家庭の稲荷を合せて祭る。無縁となった墓石を合せたものに似る。そのすぐ横に淡島明神がある。百八の石段を一気に登った。煩悩の数と同じだ。上には本殿が、その左に縦列で、祖霊社と山神社がある。祖霊社は旧本殿、山神社はお林(魚付保安林)にあったが、明治時代に移された。
その手前に、二基の神輿を修復したあとの保存庫がある。禊と称して海中に沈める為、傷んだものを修復した。
貴船稲荷 貴船稲荷説明
恵比寿稲荷と淡島明神 恵比寿稲荷と淡島明神説明
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あと二回は真鶴を訪問したい。一泊したいところだが、母がゐるので宿泊は無理だ。日帰り一回目は、百貨店や町役場のある町側と岩海岸、二回目は岬の先端。岬には信綱の歌碑があるさうだ。
真鶴の林しづかに海の色のさやけき見つつわが心清し
こんな破調の駄作を作る神経が分からない。少し直せば破調が解消する。例へば
真鶴の林しづかに海の色さやけき見つつわが心清(す)む
或いは
真鶴の林しづかに海の色のさやけき見つつ心は清し
小生と信綱は、破調への許容度が異なる。或いは定型にすることの美しさを感じる度合ひが異なる。「海の色の」は「う」と「い」があるから破調ではない。だから修正案は解消した歌としない歌を混ぜた。解消できるなら、それに越したことはない。(終)
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