二千二百十六(和語のうた、和語優勢の歌)古隅田川、曳舟川、水神社、高志のセミナー
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月十七日(水)
本日は、葛飾区青戸へ行った。終了後に、水戸街道から中川大橋まで歩き、川を上流に向かふと、足立区との区界がある。。古隅田川の跡だが、2005年築540戸の大型マンション群を抜けるまでは、形跡は無い。棟によって葛飾と足立に分かれるらしい。
マンションを抜け少し先に、古隅田なかよし公園がある。古隅田の痕跡は無く、どこがなかよしなのかも不明だ。それを抜けると小水路の跡(今でも暗渠があると思ふ)になる。先へ進むと常磐線の高架を潜り、環七をすぐ近くの信号で渡り、前回歩いた中通り商店街を超えて一つ先の葛西用水跡の道路(といっても下流は用水の痕跡が無い)を亀有駅まで歩いた。
小菅より亀有までを三日分け古隅田川すべてを歩く

「三日掛け」が普通だが、やっと終はった気持ちを出したくて「三日分け」にした。
(1.25追記)2010年の地図には、中川沿ひに「長門排水場」がある。今回は空き地だったので、排水暗渠を撤去したのだらう。

一月二十二日(月)
本日は堀切へ行った。帰りに、まづ一駅先のお花茶屋まで歩いた。すぐ先に葛西用水を暗渠化した道路がある。親水公園になり、楽しみながら亀有まで歩いた。
葛西用水は、一本の農業用水路かと思ってきたが、説明板を読むと事情は複雑だ。

 
曳舟川親水公園                   複雑な曳舟川の歴史
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葛飾の曳舟川は 利根川の水を流すとこれまでは思ひて来たが異なりて 元荒川の水を取り 小合溜井も関はりて 判らないまま家へと急ぐ
反歌  亀有に飲み水の路そののちは使はず昔読むを思ひ出す

一月二十四日(水)
本日も堀切で、午後にJR東日本の駅たびコンシェルジュ新宿へ行く用事がある。終了後その合間を利用して、水神社まで歩いた。堀切橋を渡りすぐに左折。東武伊勢崎線堀切駅を過ぎたところで旧綾瀬川と水門を見た。流れは緩やかに隅田川から荒川だったから、本来の綾瀬川とは逆だが、荒川で綾瀬川は分断されたから、逆かどうかは意味が無い。
説明板は、荒川放水路が開通したあとも、現隅田川のここから上流は荒川だった記述がない。荒川放水路はその後、新荒川、荒川と名前を次々と変へた。ここで見込み違ひが発生した。線路を横断してカネボウ公園に行くはずが、踏切が無い。ずっと下流の隅田小学校前から狭い路地へ出て踏切を渡り、都営住宅の団地を抜けて水神社に着いた。
水神社は三十数年ぶりだった。水神社が懐かしい理由がわかった。前方高い位置に高速道路があり、僅かに走行音がする。しかし後方は都立東白髭公園の高大な敷地と、防火施設を兼ねた都営住宅が並び、静かだ。この静けさが、水神社の心地好い記憶として続いた。

 
隅田宿                      水神社
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100mほど上流にお寺があり、鵬斎の石碑、梅若堂、梅若塚がある。

  
鵬斎の石碑(陽の光で右が見難いので左端のみ)        梅若堂                梅若塚
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帰宅後、隅田小学校先の狭い路地は、古東海道だと知った。水神社は、本来]100m上流にあった。梅若堂の近くだ。古東海道もそこまである。高速道路の建設で移転したさうだ。
そのあと水神大橋を渡り、汐入地区を歩き南千住から乗った。汐入はかつて道が右回りの行きどまりだったが、今は区画整理があった。右回りのバスが、左回りになった。
駅たびコンシェルジュ新宿は、北陸新幹線の延伸に合はせた企画で、富山湾の魚が中心だった。アンケートに、震災へひと言書く紙があったので、次のやうに書いた。作った歌は捨ててはいけないので、此処に記すと
(と)遠くから(や)山と谷越え(ま)毎日に 高志を後押し旅にも行かう

紙には「行こう」と新仮名遣ひを用ゐた。また和語優勢のため「応援」を「後押し」と変へた。(終)
(1.25追記)カネボウ公園は、2010年の地図に「鐘紡記念庭園」とある。今はカネボウ公園と変はった。訪れた方のページでは、荒れ放題で「鐘紡紡績株式会社 発祥の地」といふ石碑と、仏像と「震災記念観世音菩薩」と書かれた板が背後にあるさうだ。カネボウは、2008年に会社が消滅。化粧品事業と商標は花王が引き継いだ。

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