二千百九十四(うた)同僚に退職勧奨が出たら、明日は我が身と考へよ
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月二十四日(日)
小生が昔勤務した会社は、退職勧奨が異常に多かった。自主退職も多かったが、本人が希望するなら仕方がない。今問題にするのは、退職勧奨の異常な多さだ。
小生にも退職勧奨が何回もあったがきちんと対処し、定年までと、再雇用終了の六十五歳までを勤務した。同僚に退職勧奨があったときは、他人事と考へてはいけない。明日は我が身である。備へれば対処できる。
退職勧奨された人が、相談に来れば幾らでも協力した。小生が労働組合をしてゐることは、一部を除いては知られてゐないので、相談に来ないのは当然だが。これが気掛かりだったが、今後かう云ふことを起こさないために、今回の特集を組むことにした。この会社では多くが客先で働く為、顔さへ知らない人がほとんどだった。尤も会社側の対応に対して、技術者が勤務するすべての客先で街頭宣伝をするぞ、と通告したことはあったが。
転職が多いと新たな勤め先無し 日本では労働側が圧倒不利に

転職が多い人は採用されなくなる。それなら退職勧奨が多い会社の社長も解任され二度と取締役になれないのでないと不合理だ。不合理なだけではない。解任されないからますます図に乗って繰り返す。
(2024.1.13追記)労組が街頭宣伝をするときは、労組の説明と労組加入勧誘をまづ云ふ。会社批判は、さりげなく盛り込む。ましてや客先で行ふときは、注意が必要である。

十二月二十五日(月)
小生が中途入社したときに、従業員は二百六十名だった。一番多いときは三百九十名だからかなり減った。その後も減り続け八十名になった。その後は増え出したものの、景気に合はせて増えたり減ったりを繰り返した。三百名の会社で退職者の累計が二千名を超えた。
最初に八十名まで減り続けたときは、まだ皆も理解があった。会社が倒産寸前だし、それでゐて社長が「ボーナスを支給する決意をしました」と発表し、極めて少額だが支給された。
次に増え出したときは株式公開を目指すと言ひ出し、しかし出来なかった。社長の大学時代のお友だちを銀行から押し付けられた。おかしくなったのはこの辺りからだ。社長以外の全取締役を部長に降格し、最初は近所の人など二人、次に大学時代のお友だちなどを取締役にした。業績が少し悪くなっただけなのに「今期はボーナスを支給しません」と発表された。事務部門から、ローン返済がある人は貸し出すと追加で発表があったが、金利は高かった。低金利時代に会社はあんな高利子で借りて、よほど信用が無いのだなと思った。
小生はカネに困ってはゐなかったが、会社の株を九割売却した。買ったときと同額で社長が引き取った。皆が困ることを示すためだった。

十二月二十六日(火)
この会社は事務職と営業職と、プログラマーSEの課長代理以上に、尊称と称する記号(丸の中に平仮名、片仮名、漢字、ローマ字)が一人一つ割り当てられた。ここで注目すべきは、プログラマーSEの主任以下は社員扱ひされてゐない。一人(にん)月(げつ)幾ら、だけであった。派遣をしてはいけないと主張する理由はここにある。仕事を受注して、計画から人員配置などを自社で行ふから、そこに知識の集約や労働意欲向上策、安全衛生がある。人を丸投げだと物扱ひになる。
その次の段階に入ると、社員扱ひされるはずの営業が、売り上げと粗利益だけで判断するやうになった。そして営業の離職率が極めて高くなった。大阪を例にとると、大阪事業所を立ち上げた功労者を始め、その次の大阪事業所長、名古屋事業所と統合した事業本部長など、少しづつ退職した。まづ退職するのは売り上げの低い人だ。このとき残りの人たちはまさか次に自分が、とは思はなかっただらう。そして次の年は、前年に業績の良かった人が退職する。そんなことを毎年ずっと繰り返した。東京を例に挙げないのは、池袋、横浜、千葉があり複雑な為である。
事務の人たちは、安心してゐたに違ひない。しかしその次は事務に飛び火し、次々に退職することになった。ここまでで云へることは、他人の退職勧奨を見て見ぬふりをしてはいけない。明日は我が身である。
技術者は人月だけで物扱ひに 営業も売り上げだけで物扱ひに

新たに加はったのが
事務職は社長気まぐれ物扱ひに お友だちお親戚だけ人扱ひに
(終)

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