二千百四十八(うた)一仏思想から多神思想へ
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月四日(土)
仏法の教へには、一仏思想と多神思想がある。一仏思想は、阿弥陀仏や久遠仏を信じるものだ。多神思想は、あちらこちらに霊がゐるとする思想だ。人間が死んでも一時的に霊となるが、長期間霊で居るものもある。
前者と後者の違ひは、一仏の前で愛想よくするのか、すべての前で愛想よくするのか。本来の用語を使へば、一仏の前で貪瞋痴を克服するのか、すべての前で貪瞋痴を克服するのか。
誰でも分かるやうに、貪瞋痴の代はりに愛想を用ゐた。だから、顔だけ作り笑ひで、心の中が黒いのでは駄目だ。心の中からでなくてはいけない。
しかし、顔だけ作り笑ひより更に恐ろしい間違ひがある。一仏の前で拝めば、愛想さへ不要だとする考へである。その結果、真宗系では内紛や戦まであったし、久遠仏系では内紛や他の団体に対し罰だ罰だと言ひ合ふ行為である。
あちこちに神々が居る三毒を常に何処でも避けるため 古代印度に始まるももろこし大和も有効思想

反歌  明治人お天道様見て居るとこれも三毒避けるの思想
反歌  現代は夜も電光輝きてお天道様見ざる時あり

十一月五日(日)
多神思想は、イスラム教とは矛盾しない。創造主が世界を作り、世界には人間には見えない神々も居る。今回キリスト教を除外したのは、キリスト教には失望した。そもそも西洋野蛮文明による地球温暖化は、キリスト教に責任がある。キリスト教は、きちんと西洋未開人どもを教導すべきだ。
多神とは見えない霊も敬ふの 地球救ふか世界にも広がるべきの優れた教へ

反歌  阿弥陀仏敬ふ人を救ふのみ一部の仏地域の仏

十一月六日(月)
一仏思想の欠点は、愚かで欲深くなる虞があることだ。例へば事業がうまく行くには智慧と努力が必要だ。ところが阿弥陀仏や久遠仏に祈ればうまく行くと考へてしまふと、智慧と努力を怠る。貪瞋痴の増加である。
かつて、すべての経典は釈尊の直説と信じられた。しかし平安時代から鎌倉時代に掛けては、末法に入ったので仏法は力を失ったと考へられた。戦が続いたこともある。そのため特定の経典にすがらうとする思想が出た。
江戸時代の末期には経典非仏説が出て、戦後の科学発展によりそれはますます増大した。これは平安時代から鎌倉時代にかけてと酷似する。大乗非仏説と云はず経典非仏説としたのは、大乗への配慮である。固定思想(宗教)は文化の一部である以上、日本は大乗で行くのが良い。
小生自身は、貪瞋痴を無くせば、対人も対神々もうまく行く。そして小生自身は、止観のうち止が重要だ。それだけである。(終)

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