二千百四十五(うた)青砥駅近くのマンション
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月一日(水)
本日は、青砥駅近くのマンションに勤務した。清掃業務の無い純管理人である。今までに管理のみの業務は、六ヶ所で延べ二十五回くらいだ。とは云へ今までの多くは、管理のみでも、ごみ出しは清掃員を助けるだとか、一部清掃を受け持つなどで、管理のみは今回が初めてか二回目か三回目だ。
数が不明なのは、巡回の時についでに清掃をしたことがあった。それに対して、今回は清掃が一切ない。これは楽さうに見えるが、管理室に張り付くので大変だ。
清掃の無い管理人事務職に見た目は楽だ何も無ければ
受付としては、駐車場、駐輪場、集会室がある。集会室は給湯場が付属する。お手洗ひもある。かつては、学習会や有料の学習会も開かれたのだらう。有料は使用料が異なるとは云へ、一時間五百円か七百円の違ひだ。しかし近年は、管理組合の役員会などだけだ。一階に商店街が無いのは、築三十年前後の為か。
集会室を有効活用し、付加価値を高める方法は無いだらうか。民間に賃貸し、保育室にするのも一つの方法だ。役員会は区立の施設を借りればよい。集会室の無いマンションは、さうやるところが多い。
団地には時代によって変化あり 階段のみと商店街昭和四十年代か エレベータあり店は無し集会室は三十年前
反歌
駅からは遠く家賃は安くない公団ではなく今UR
小学生のころ大伯母(父の伯母)が、高砂園と云ふ養護老人ホームに居たので、父に連れられて面会に何回か訪問した。京成青砥で降りて、高砂橋を渡ってすぐだった。今気付いたが、京成高砂のほうが近い。なぜ青砥で降りたのか不明だ。後に高砂園は水元猿町に移転し、金町で降りてバスで行った。最初は京成で金町へ行き、後に常磐線を使ったと思ふ。
だから青砥は懐かしい駅だ。とは云へ、記憶にあるのは高砂橋を歩いて渡ったことだけだ。青砥で降りても、まったく記憶になかった。無理もない、六十年ほど前の話である。後に大伯母は病気が重くなり、特別養護老人ホームの水元園へ移った。
葛飾を千葉県側と分け合ふも 葛飾駅は西船に 千葉の葛飾ほぼ消滅か
反歌
青砥駅押上線が合流し上野成田にかつて次ぐ地位
反歌
高砂は複々線が解消し北総分岐引上線も
かつて特急開運と特急瑞光は、上野、青砥、成田が停車駅だった。つまり上野、成田に次ぐ位置だった。青砥と高砂の間は押上線が合流するので複々線で、ここで高砂止まりが引き上げ線で上りに転線し、北総線も分岐するため、複線に戻る。二番目の反歌はそれを云ひたいだけだったが、押上線と引上線の対比に発展させた。
マンションの入口に水害予想地図が貼ってある。江東五区とあり、初めて聞く表現だ。
葛飾は江東五区の一つにて水害予想地図凝視する(終)
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