二千五十六(うた)中央区湊、佃島、新佃島、石川島、霊岸島、八丁堀
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月二日(水)
本日は、中央区湊のマンションに勤務した。墨田川が近く、対岸には佃島や霊岸島が見える。駅は新富町、八丁堀、築地が10分圏内だ。
バスの停留所は鉄砲洲、湊三丁目、明石町が徒歩5分圏内だ。どれも懐かしい停留所名で、都バスの東15しか通らない。ところが東15は乗った記憶が無い。二十年ほど前に、都バスの1日乗車券であちこち出掛けたときに、深川車庫から始発に乗った記憶がある。東16だと思ったが、或いは東15なのだらう。バス停には覚えがあるのだから。
帰りは少し遠回りをして、湊公園、鉄砲洲児童公園、鉄砲洲稲荷神社へ寄った。往路に通った湊湯の前を、帰路も通った。パンフレットがあり、入湯する訳ではないので目を通してお返しした。経営努力は立派だ。もう一つ銭湯を経営するので、株式会社組織かも知れない。
新大橋通りに出て、駅まで歩いたあと帰った。八丁堀駅は、日比谷線側が賑はふと聞いたからだった。
湊へは数回勤務の予定あり 湊入船新富に八丁堀と帰り寄り 余裕があれば新川や佃島へも皮算用に

反歌  都電には五十年前桜橋新富町と八丁堀のみ
湊、入船、鉄砲洲の停留所が無かったのは意外だった。桜橋は懐かしく、またあの辺りは普通に庶民の住む街だった。

八月七日(月)
本日は帰りに、隅田川を佃大橋で渡り、日吉神社の三年に一度の大祭に遭遇した(他の年は蔭祭で小規模)。道路に向かひ展示してある八角神輿と獅子頭を観た。大幟も六本のうち三本を観た。
佃島祭りは街に密着し 訳は小路を神輿行く 他の神社では区道を進む

反歌  出会ふ山車神輿江戸より佃島今は佃の一丁目南部
反歌  堀よりも東は少し佃島新佃島は時代異なる
昔は、都電に新佃島と云ふ停留所があった。月島行きの都電が、通勤時のみ延長し「月島新佃島」と書かれた。だから新佃島のほうに親しみがある。佃島は住吉神社周辺のみ。佃公園を歩いて、なるほど石川島播磨重工へ勤務する人たちのために延長したのかと思った。
新しく出来た(と云っても二十九年前)ので今まで知らなかった橋で霊岸島へ渡り、高橋で本土(?)へ戻り、八丁堀から帰宅した。霊岸島は町名変更で新川になった。富岡八幡のポスターを一枚だけ見つけた。ビル街のためあまり関心が無いやうだ。家に帰り調べると、中央区の新川と日本橋箱崎町は富岡八幡の氏子地域だ。かつて越前掘と云ふ都電の停留所があった。
見出しを本日「中央区湊のマンションに勤務」から「中央区湊、佃島、新佃島、石川島、霊岸島」に変更した。

八月九日(水)
地下鉄有楽町線の新富町駅へ行き、再び地上へ戻ってから八丁堀駅まで歩いた。左に中央図書館らしきものがあったが、帰宅後に調べると「本の森ちゅうおう」で京橋図書館だ。急に雨が降って来たので、急いで八丁堀駅へ入った。
日本が熱帯気候に変化した 雷雨の雲は現れず 晴れた空から雨が降る 降りそのあとは強い日差しに

反歌  晴れた空急な雨脚のち晴れて次にまた雨暫く続く
次は、越前堀児童公園と芭蕉句碑を予定したが、京橋図書館へも寄りたくなった。あと四回勤務があるので、行く機会はある。

八月二十一日(月)
本日は終了後に、亀島橋まで歩き日比谷線八丁堀駅の上をJRの上まで歩いた。ここに飲食店が集中すると云ふ情報があったためだが、特には見当たらず駅へ降りた。亀島橋際の芭蕉の石碑を見逃したが、あと一回近くへ行く予定だ。
桜橋都電交差の停留所 八丁堀は一つ先JRとの交差の辺り

反歌  今見てもどこが都電の線路かは分からず古い地図で調べる
中央は 千代田と港新宿や文京区などと異なりて 大きな道はそれぞれにすべて都電があると限らず

反歌  桜橋都電乗り換へ新富や八丁堀は一停留所

八月二十三日(水)
本日は、母がデイサービスを休みだ。妻は仕事を休んだ。皆でお昼を食べるので、小生も午前十一時に仕事を終へるとすぐ帰宅した。そのため途中は、どこにも寄らなかった。
代はりに、往路で鉄砲洲神社の富士塚を見た。前回は、神社と左側は見たが、右側にあるとは知らなかった。
富士塚の後と横の真上には 六階及び七階の二つのビルがすぐ迫る だが富士塚の壁周り江戸の昔の石碑あり すべての人が登る距離ビルの千倍一万倍か

反歌  都区内に九十強の富士塚ありかつて上から富士の嶺見える

八月二十八日(月)
本日は仕事終了後に、高橋を渡り霊岸島へ入り、越前掘児童公園に寄った。説明版によると、かつて福井藩の屋敷がありその周りに堀があった。堀は隅田川から八重洲通りに沿ひ、右折して越前堀児童公園の辺りを通り、再度右折して隅田川に戻った。400m×300mの高大な敷地だった。明治維新の後に屋敷は民有地になり、堀も徐々に埋め立てられた。町名もあったらしいが、小生は都電の停留所名で記憶がある。桜橋、八丁堀、越前掘、永代橋が5番(目黒駅前-永代橋)の終点だった。小生は5番には港区の芝園橋から目黒方面に乗った記憶しかない。或いは4番(五反田駅前-銀座二丁目)だったかも知れない。桜橋で交差する36番(築地-水天宮錦糸掘)は、廃止になる前に何回も乗った。永代橋で出会ふ28番(日本橋-錦糸町駅前)と36番(門前仲町-砂町錦糸堀)も何回も乗った。(水天宮錦糸堀とは水天宮経由で錦糸町駅前、砂町錦糸堀とは砂町経由で錦糸堀車庫。それぞれ経由を過ぎると正式な方向幕に変更した)


飛騨の西越前の名を今残す 屋敷の跡と堀の跡 今は唯一公園として

反歌  町の名と公園の名と停留所今は唯一児童公園
そのあと、すぐ近くの馬事畜産会館まで行った。日本馬事協会、日本家畜商協会、日本馬術連盟、全国畜産農業協同組合などが入居してゐた。


更に進み、前回見逃した芭蕉の句碑を見た。この地に住んだ写楽と伊能忠敬の説明版も読んだ。


更に進むと寄付者の石型から神社の敷地だが民家風でその二階が神社と云ふ建物に遭遇した。狭い敷地での一つの在り方だ。稲荷の小さな敷地でも神主の家兼社務所があれば、普段は働きに出て神社を維持することができる。




八月三十日(水)
本日は七回の最終日だ。終了後に、京橋図書館へ行った。ホームページによると
明治43年8月に東京市立図書館として設立認可(中略)大正11年に移転した建物は、翌年の関東大震災で全焼しました。昭和4年に中央区役所内に移転して、幸いにも戦火を免れ、現在では貴重な資料を所蔵する都内屈指の図書館となっています。令和4年12月に中央区立郷土資料館とともに、新設された複合施設「本の森ちゅうおう」内に移転しました。

郷土資料の展示が立派だと思ったら、さういふ理由だった。六階の屋上と展望台まで、すべてを廻った。最初は、越前掘近くの日本図書協会へも寄る計画を立てた。しかし午後に用事がある為、これは中止した。途中に寄る筈だった銀行のATMも中止した。ところがその銀行の支店前を通った。そのため中止したはずのATMでの送金は復活した。
南浦和駅に着いたあと、スーパーで「海鮮とアボガドのポキ丼」(税込み五三八円)を買った。終了祝ひである。イカ、まぐろ、サーモンの絵があり、魚の切り身(ハワイ語でポキ)を美味しく味付けたとある。
偶然に支店の前へ行き当たり 中止の送金復活し 図書館へ寄り館内を一周の後 駅へと急ぐ

反歌  七回の八丁堀が終了し海鮮丼で無事故を祝ふ
反歌  昼食後工事業者と打ち合はせ登記証明ネット手続き
反歌  本日は変化が多く疲れるも海鮮丼で暑さをしのぐ
反歌  図書館をすみずみまでも見て廻る忙しいとは誰も思はず(終)

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