二千二十一(和語のうた)函南旅行外伝
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
六月八日(木)
往きの新幹線に品川で、五人連れの欧米人が乗ってきた。三人掛けと二人掛けの一列に座った。五人の男女のうち、三人掛けの通路側に座った男性は、かなりの肥満だったので窮屈さうに座り、やがて前列の空いた三人掛けに移った。ここまでは、よく見掛ける光景だ。
次の新横浜は、或る程度の乗客がある。すると前列に移動した男性が元の席に戻り、再び窮屈さうに座った。前の三人掛けは、誰も座らなかったが、その男性は窮屈さうにしたまま、五人の下車駅である小田原まで乗車した。
ここが日本人と異なる点だ。日本人だったら、新横浜で乗車した家族連れが、三人で離れた席にならうと、知らないふりをするだらう。ここで注意すべきことは、欧米人は行儀がよいのではない。まづ欧米でも国によって異なるし、個人でも異なる。次に、欧米人と日本人で、行儀や道徳に、それぞれ優れたところと劣ったところがある。全体では過不足が無いので、欧米も日本も、社会がうまく機能する。いや、日本ではかつて機能した。
ここで日本が過去形なのは、プラザ合意の後は大挙して欧米に旅行し、悪い所だけ真似をするため、日本は社会が破壊された。悪いところだけ真似するのは、マスコミも同じだ。社会の違ひを意図的に無視し、欧米は優れてゐる日本は劣ってゐると書き立てるため、日本では社会が破壊された。

六月九日(金)
函南駅から仏の里美術館までは、純農村地域だった。唯一の養牛庫があり、伝染病予防のため近づかないやう注意書きが貼ってあった。インターネットで調べると、丹那トンネル建設で水不足の保証金で、この地区は酪農に進出したとある。今残ったのは一軒だけなのだらうか。
それ以外は普通の農村だったが、今思へば畑は無く、田圃は小さかった。そして寂れた感じではなかった。兼業農家で、熱海、三島、沼津に就職先があるのかも知れない。
兼業を専業または株式会社に変へることが、十年ほど前に報道されたが、兼業の就職先を大都市から全国に分散する方法もある。
かんなみで仏の里の周りには貧しい家が見られない 勤める先のある村は農(たがや)す上に豊かさもある

反歌  人びとが長く護りた仏たちその心根が豊かさを生む

六月十日(土)
函南駅から仏の里美術館までの道が快適なのは、道路下の水路や、道から少し離れた場所で川の音が聴こえる。そして道自体は上りを感じない。水が流れるのだから傾斜はあるのだらう。だが往路でまったく感じなかった。
水音が 石の板道たまに開(あ)く穴の下からする坂は 坂と気付かず上りては 仏の里へ歩みを急ぐ

反歌  道の横川がときどき近づきて水音たまにすることがある
道の一番上を左の道へ曲がれば箱根に行けるが、
この道の端で曲がりて左行き ひと山越せば箱根へと至るもそこは石畳 護るためにも車通れず

反歌  人ならば歩いて行ける箱根へとだが此処の人そこは歩かず
実際は、函南駅から一番上までを十割として、美術館が二割五分。そして五割のところに、右側の谷を行く道から此の谷で四辻となりそのまま左の谷へと二車線の道がある。左の谷とは、箱根へ続く国道一号線東海道だ。(終)

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