百九十、牛丼屋と客はどちらが悪いか


平成二十三年
八月七日(日)「つゆだく」
吉野家とすき家が安売りセールを行つた。私は牛丼屋へは安売りの時しか行かないことにしてゐる。その理由は「つゆだく」とかを注文するあこぎな客がゐるためである。それを受け入れる牛丼屋も悪い。
今回はセールなので久しぶりに吉野家とすき家で昼食を食べた。

八月八日(月)「牛丼店不買宣言」
料金表に「つゆだくもできます」と書いてあるのなら問題はない。書いてないのに一般の人の知らない用語を用ひる。不公平な話だ。正直者が損をする制度は許されない。
そもそもつゆの量は今のままで十分である。多く入れると塩分を取りすぎる。それにいちいち好みを言ふのは西洋人のやり方である。アジアで真似をする必要はない。
それにしてもつゆだくとは語感の悪い言葉だ。こういふ言葉を用ひる牛丼店に対し、すべての国民は安売りセールを除いて購買を拒否しやう。

八月十四日(日)「恥を知る」
牛丼店が安売りの時は、割引してゐないものも追加注文すべきだ。私の場合は牛丼とサラダを注文する。ところが牛丼だけを注文する人がゐる。これならまだ許せるが、牛丼だけを注文し「つゆだく」といふ輩がゐる。これは許し難い。
日本は恥の文化といはれる。それはよいことだ。しかし法律の罰則はない。恥を無視する輩が暴利を得ない世の中にする必要がある。

八月十六日(火)「食堂の仕事を奪つてはいけない」
私が初めて吉野家で食べたのは三十年前である。当時は並が三百円、大盛りが四百円だつた。当時の三百円は今の六百円相当になる。何しろスカイラークやすえひろ5のコーヒー付きランチが四百八十円の時代である。牛丼といふまづそうな代物で三百円は高い。そう思つた。その後に五十円値上がりしたがプラザ合意後に再び下がり数年前の狂牛病騒ぎまで並は三百円、大盛りは四百円だつた。これで普通の飲食店は対抗できるだらうか。

八月十七日(水)「地域の活性は弁当屋と食堂から」
昼食の弁当は四百円が相場であらう。たまには高級にと五百円のものも売れやう。今年の春にタイを旅行したが街に活気があつた。路上に並ぶ食べ物屋が原因である。
日本でも弁当屋と食堂で街を賑わす社会にすべきだ。まづ日本では十二時から一時までだけが混む。これは労働基準法で休憩を一斉に与へることが原因である。四交代で取れば十一時から三時まで休憩が分散する。西洋の猿真似で法律を作るから街が不活性になる。
個人商店が増へれば夫婦で弁当を買ふから、ご飯やおかずはビニール袋詰めでよい。弁当屋の経費が節約される。個人商店でできることは個人商店でやるべきだ。スーパーと郊外量販店は禁止すべきだ。

八月二十日(土)「学生アルバイトとフリーターは禁止しろ」
牛丼屋の店員は若い人がほとんどだ。学生のアルバイトはよくない。周辺の食堂経営者や調理人の仕事を奪ふことになる。学生のアルバイトは禁止して大学が奨学金や部活費を貸し付けるべきだ。卒業後に就職できないと貸し倒れになるから大学の就職課も企業開拓に力を入れるやうになる。優秀でないと就職先がないから学部もがんばる。退学者が出ると貸し倒れになるから、くだらぬ授業をやる教授は解任するやうになる。いいことだらけである。

フリーターも禁止すべきだ。若いうちはよいが仕事がなくなる。収入が少ないから結婚せず少子化の原因になる。失業率が本当は高いのに低く見へて厚生労働省の怠慢の原因になる。牛丼屋は日本の縮図である。牛丼を改革すれば日本はよくなる。(完)


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