千八百六十六(和語のうた) 竹中半兵衛と黒田官兵衛
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十一月五日(土)
小生は、竹中半兵衛と黒田官兵衛のうち、どちらに似るだらうか。長年、竹中半兵衛型だと思ってきた。半兵衛は無欲な男、官兵衛は欲の塊だからだ。
ところが日経ビジネスの
黒田官兵衛は詐欺師だった? 秀吉の天下取り貢献後の冷や飯暮らし
を読むと、さうではなささうだ。加来耕三さんの執筆である。
官兵衛は(中略)素直な人でもありました。陰謀家と称される人物は普段から、周りから危ないと思われています。ですから、調略を仕掛けても、誰もが相当用心をします。ところが官兵衛の調略には、みな引っかかるのです。なぜかといえば、彼は真っすぐな性格で、言っていることに嘘がないからです。
小生は、嘘を云はないし、裏切りもしない。人から裏切ったやうに誤解されるのは、その人は短期を見るのに小生は長期を見るためだらう。ここで小生は一旦、官兵衛派になったが加来さんの記事をよく読むと「調略」の二文字がある。やはり違ふのか。信長が殺されたあと
官兵衛はまず、自軍内に噂を流しました。「秀吉様が光秀を討ったら、上様(信長)に代わって秀吉様が天下を取る。秀吉様が天下を取ったら、将校は大名に、足軽は将校になれるぞ。こんなすごいことがあっていいものか」という噂を流したのです。
人間は、同時に2つの道が示されると、暗いほうより明るいほうを取るものです。秀吉の首を取ってどちらかに走るという暗い道と、自分の力で階段を駆け上り、未来を切り開くという明るい道の2つがあれば、明るいほうを選択するでしょう。
これは嘘ではなく、秀吉は天下を取ったし、このとき活躍した人たちは、大名や将校になった。しかしこんな謀略をしてよいだらうか。否、そればかりではない。信長家臣たちが集まった清洲会議以降の秀吉は、嘘の塊となってしまふ。
官兵衛に嘘がないと云ふのは間違ひだ。小生の心の中で官兵衛は三日天下に終はった。
十一月六日(日)
婦人公論のホームページに
黒田官兵衛が様々な調略を成功させることができたワケ。敵方の心すら動かす<信用力>はどのように作られたのか
が載った。著者は、同じく加来耕三さんである。
戦国武将・黒田官兵衛については、稀代の策略家とか陰謀家といったイメージを抱いている人が、今なお多いようです。(中略)しかし、考えてみてほしいのですが、世間から、「あいつは信用できない。いつも人を欺(あざむ)いてばかりいる」という評判が立っている人物の話を、人はそもそもまともに、聞こうとするものでしょうか。(中略)筆者は、後世になって定着したイメージとは正反対に、官兵衛はあの時代において、誰よりも誠実で正直者だったと考えています。しかも、状況を的確に分析して、最適な答えを見つけ出す能力にも長けていました。だから(中略)「調略」にあたった多くの人々の、心を動かし得たのではないでしょうか。
「調略」の言葉に引っ掛かるが、それについて
どんなに嘘をつかず、実直な人物だったとしても、言っていることが空論や抽象論であったら、信用は得られません。(中略)
信用を得るためには、実直であることに加えて、主張していることに説得力や納得感があることが求められます。
「調略」は、敵を説得する技だ。戦国時代は、どの武将も用ゐた。それなら納得できる。とは云へ「秀吉様が光秀を討ったら、上様(信長)に代わって秀吉様が天下を取る」はやはり駄目だ。桶狭間の大逆転とはならなかった。
普通の謀略者は短期を見る。官兵衛は中期を見た。本当の戦略者は長期を見なくてはならず、それは戦国時代を終はらせることだ。
官兵衛が正しい人と一たびは思ひかけたがことわり為らず
官兵衛が仕へた豊臣家は、その後朝鮮出兵を行なひ、関ヶ原の戦ひも起きた。(終)
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