千七百五十三(歌) 「目黒と五反田」訪問記
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月三十日(月)
本日は目黒勤務の最終日だ。帰りに五反田へ寄った。まづ目黒の岩谷弁天に行った。前回目黒不動に行ったときに見逃した。ここは行く価値がある。境内と周辺の民家の境界がはっきりしないのは、昭和四十年辺りまでの寺社の特徴だ。石仏の弁天とおしろい地蔵も民俗として貴重だ。
歩いて五分ほどで目黒不動に到着する。
途中に五百羅漢寺があるが、入ってはいけない。拝観料五百円は高いし、二百八十七体しかない。足りないのは経年変化としてまだ許容できるが、そのうちの本堂に置けない百四十六体を羅漢堂に安置とはもったいないことをする。
外から見える建物がお寺らしくない。黄檗宗から分離したのが昭和二十三年で混乱期なのだから、一旦復帰して頭を冷やすべきだ。建物がお寺らしくないのは、明治時代に二度移転した。一歩間違へると新興宗教になる。

江戸時代に始まった最初の七福神が目黒とその周辺にある。五百羅漢寺は、明治になってから目黒に移転したから、これに入れてもらへるはずがない。
七福は清正公を始点とし 瑞聖妙円大円寺岩谷弁天 終点は目黒不動で六寺七福

(反歌) 途中には五百羅漢が近代の建物にしてここは通過を
目黒不動は堂宇が多く、信仰心の現れだらう。前回は高台から境内に入り、本堂、階段を降りて左側の阿弥陀堂などを見た。今回は山門から入り、左側の滝、前不動、青木昆陽の石碑、バス通路で隔てられた弁天堂、豊川稲荷に寄った。
目黒から大円寺前坂を降り 大鳥神社の並びには岩谷弁天 やや離れ目黒不動の本堂と枯れることなき滝と池 前不動なる朱け塗は徳川の世に建てられてこれも名高く今へと続く

(反歌) 境内は青木昆陽顕彰の石碑もありて世の為の寺

目黒川に沿って五反田まで歩いた。「時間ですよ」の舞台はどんなところだらうと、心を弾ませて行った。予めインターネットで調べると、第一回放送の冒頭で堺正章が五反田駅前の歩道橋に出てくるさうだ。背後に八つ山通りが映るさうだ。と云ふことは山手線内側だ。
今「時間ですよ 五反田」で検索すると、どのページも「下町と山の手が同居しているような」の序詞が付く。山手線に注目すれば「郊外の」が正しい。今の埼玉県や千葉県の30km圏内を考へると判りやすい。当時の郊外である。
一方で、路面電車が目黒まであったことを考へれば、市街であったことは間違ひない。山の手は千代田区、港区、渋谷区。
今はビル街、マンション街になった。八つ山通り右側を少し歩き、右の路地に入ると木造二階建ての家が二つある。どちらも両隣はマンションだ。マンションは規模がある程度大きくないと建築主の利益が少ない。両側からある程度面積を確保して、中間が残ったのだらう。このあと駅に戻ると、駅前に何軒か商店兼住宅の二階建てがある。昭和六十年くらいまで、商店は二階を住宅にすることが普通だった。欧米野蛮人からウサギ小屋と云はれやうと。
二階建て民家は十店ほど見ただけだが、この辺りはかつてかう云ふ建物が続いた。それを確かめることができたので、五反田を後にした。
下町と山の手分けるやり方は市街地がまだ小さい時に
(終)

メニューへ戻る 歌(二百九十二)へ 歌(二百九十四)へ