百七十三、宗教といふ単語の再定義

平成二十三年
五月二十九日(日)「人間は間違つたことも言ふ」
本来世の中に宗教といふ単語は必要がない。子供が生まれて名前を付ける。役所(江戸時代は寺)に届ける。正月に新年を祝ふ。ひな祭りや端午の節句や七五三を祝ひ成人式に参加する。どこまでが宗教でどこから違ふか答へるのは難しい。
宗教とは西洋近代文明が自分に反するものをそう呼んだに過ぎない。しかし今後は非西洋の全ての文化と西洋でもカトリツク、正教会等の復権のためにまず宗教といふ単語の再定義が必要となる。

宗教とは或る人間の言ふことをすべて正しいと考へることだと定義するとよい。間違つたことを言はない人間はゐない。例へばアインシユタインは量子論で間違つた主張をした。
ところが釈迦やキリストや僧Xや親鸞は間違つたことは言はないと思つてしまふと偉人が近代文明から取り残されてしまふ。

五月三十日(月)「拡張定義」
一人ではなく長い歴史が宗教を作ることもある。ヒンドゥー教や神道はその典型である。だから昨日の定義は「或る人間の言ふことまたは或る教義」と言へば済むのだが、それでは定義がぼやける。宗教の特質をはつきりさせるために後者は拡張定義とした。

六月二日(木)「マルクスを宗教から学説に戻すべきだ」
共産主義者はマルクスのいふことはすべて正しいと考へる。だから共産主義は宗教である。旧ソ連の失敗は「ブレジネフが悪い」「フルシチヨフが悪い」「スターリンが悪い」「レーニンが悪い」「エンゲルスが悪い」とだんだん遡つたがマルクスだけはまだ聖域である。
よいとか悪いとかの問題ではない。人間は間違つたこともいふ。一つには今と時代が異なるし、二つにはその時代を生きても情報をすべて知つてゐた訳ではない。三つにはどんな偉人でも場合によつては権力欲などに巻き込まれることがある。

六月四日(土)「権力欲」
釈尊の時代には教団運営を巡つてデーバダツタとの争ひがあつた。日本では永平寺第三世の徹通義介が追ひ出され、僧Xの死後に六老僧が争ひ、真宗の各派は武力闘争を行つた。
教祖も宗祖も開祖もその弟子たちも間違つたことを言ふこともあるし権力欲などと無縁ではない。正しい部分を受け継ぐことこそ重要である。

六月五日(日)「僧Xの他宗攻撃を考へる」
僧Xはなぜ他宗を攻撃したのだろうか。僧Xの生まれた時は飢饉疫病が天下に満ち、牛馬が巷に斃れ骸骨が路に充ちてゐた。そのようなときに「釈尊の仏教は正しいのです」と言つたところで誰も耳を貸さない。他宗批判は釈尊を嘘つきにしないための最大限の努力と見るべきであろう。
僧Xの時代には蒙古襲来もあつた。だから西洋の植民地になる危険のあつた明治以降に僧Xが流行したのも当然であつた。釈尊の禅定といふ教への中で天台も伝教も空海も法然も道元も僧Xもその時代に合つた方法を模索したと考へれば、すべての仏道の共存は可能である。

六月六日(月)「唯物論の再定義」
人類は食物のみによつて生きるのではない。それでは家畜である。人類には文化が必要である。そして文化に宗教が含まれる。ここでいふ宗教とは再定義前の意味である。教祖も宗祖も人間である限り間違つたことを言ふと気が付けばすべての宗教は共存が可能である。
しかしこの方法は地域内の宗教の共存に留め、世界各地の文化は地球を住み分けて来た人類の歴史に従ひ、世界の各文化に宗教を含め文化の維持こそ重要である。
外来宗教を受け入れない文化は存在しないから、外来宗教の自由も保証される。
文化の存在を認めず経済と西洋文明だけを世界に押し付けようとする思想こそが唯物論である。現今の世界では新自由主義とグローバリズムがその典型である。
共産主義は唯物論を自称はしても民族解放戦線でこれを克服してゐる。

六月七日(火)「現代における世界最悪の邪宗教」
現代における世界最悪の邪宗教は西洋文明崇拝教である。日本にはこの信者が江戸時代末期以降多くなつてしまつた。
アメリカにも多い。アメリカの場合は非西洋地域の文化破壊を行ふから極めて有害である。

その土地の言葉を人為的に変へてはいけない。そういふ行為は創造主に対する冒涜である。アメリカ大陸は先住民の言葉に戻すべきだ。英語を使ひ移民を受け入れる限りアメリカは唯物論国である。

六月十日(金)「宗教といふ単語を再定義の結果」
宗教といふ単語を再定義した結果、宗教は悪い意味になつた。なぜなら或る人間のいふこと(または或る教義)はすべて正しいと信じることだからである。
しかし従来のすべての宗教はわずかな修正で悪い意味の宗教を免れることができる。共産主義もわずかな修正で悪い意味の宗教には定義されない。それにより世界に貢献すべきだ。悪い意味での宗教である西洋文明絶対主義即ち唯物論に勝利し、地球の滅亡を防ぐべきである。(完)


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