千六百八(歌) 長谷川洋三「良寛の思想と精神風土」
辛丑(2021)
九月八日(水)
長谷川洋三「良寛の思想と精神風土」は、平衡のとれた良識ある書籍である。まづ良寛の生きた時代の背景として、田沼の汚職と収賄の蔓延した時代に
それに対する反論や批判は無力であり、(中略)当時皇政復古論を説いた竹内式部や山県第弐が流刑もしくは死刑にされたことをみれば明らかである。

そのため
田安家に仕えていた加茂真淵は(中略)病気と称して仕えを辞し(中略)村田春海、(中略)などは歌道にはしっている。(中略)本居宣長は儒仏二道を攻撃することに力点をおいたためか幕府に忌まれることなしにすんでいるという。

良寛の父が勤皇に走るのも、そんな背景があった。
黒船の 現れる前 勤皇の 思想がありて 幕府より 弾圧された そのことを 知りて以南の 苦悩を量る

良寛の円通寺を詠った詩について
だが、右の詩によって垣間見ることの出来るきまじめな修行態度は、求道心のある者なら一度は通過するものであり(以下略)

これは鋭い指摘である。多くの人が、修行時代に良寛は他を抜きんでていた、と書いてしまふところだ。国仙示寂の後、第十一世を嗣いだ玄透が再建した大悲閣を詠んだ良寛の詩を紹介の後
この詩に接する時、青年僧の高揚された心が伝わってき、(中略)士気をさえ覚える。良寛自身も玉島時代の自分が衝天の士気に燃えていたことを次の詩の中でしるしている。

として、別の詩も紹介する。そしてそのあと
当時の意気揚々たる士気はいつまでも持続したわけではなく、越後帰国を前後に消えていったように思える。

その前に、大悲閣を詠んだ良寛の詩は重要だ。良寛は第十一世玄透と不仲になり出て行ったのでも追ひ出されたのでもなかった。
越後帰国を前後に、士気が消えたとするのは同感だ。私はこれを、修行の進化と見るところが、長谷川さんと異なる。尤も長谷川さんも
曹洞禅は頓悟というよりは漸悟であり、士気とか意気揚々といった心よりは、物静かな心の方がより近い(以下略)

と述べるから、消失したのは士気のみと解釈することもできる。
次に、大関文仲や鈴木文台の記したものより
比較的早く「任」なる言葉を言いえたかもしれない。だが、真の意味での任は、壁の少ない玉島時代には有りえたとは思われない。それより(中略)名利欲や物欲などにおいては解脱ともいうべき域に達していたといえよう。

これは同感である。

九月九日(木)
長谷川さんは良寛に、八苦のうちの
愛別離苦と五蘊盛苦においては、むきだしの苦がその詩歌に残っていることを指摘せねばなるまい。

とする。まづ
今よりは思ふまじとは念へども想ひ出しては袖しぼりつつ

など五首を挙げて
良寛の哀しみは生家との関わりから生れているように思える。

として、母の死、父の自殺、生家を捨てた良寛の不孝を挙げる。そして
では良寛の苦は愛別離苦だけであろうか。(中略)別の苦もあったのである。五蘊盛苦といっていいものである。

として、詩に
「凄」という文字が夥しく出てくるのに気づいた。

とする。幾つもの詩を紹介ののち
「凄」は秋風に対する心情であり、夜における心情であり、縁者の死に接した折の心情である。

私は、長谷川さんの意見に敬意を持つものの、別の意見だ。良寛は苦ではなく、詩情を書いたのではないか。とは云へ、良寛が老ひを嘆いた詩歌には、苦を感じた。更年期のうつ病ではないか。

九月十日(金)
長谷川さんは、良寛は空から任に至ったとし、任には禅系のものと浄土系のものがあるとする。そして良寛に念仏系の歌があることについて、長谷川さんは円通寺の開山が黄檗宗とも関係があったことを一番目の要素に挙げる。そして
第二の要素としてあげるのは、良寛自身の性格の多様性という(以下略)

具体的には
感覚の繊細性、多様性が道元禅の性格とやや背反するもので(中略)道元は行持の人であり、鋭理な哲理を持ち、厳格な規制の中に生きた人であった。美辞麗句は一切排し、仏書しか接せず、弟子にも仏典以外の外典に接触することをいましめている。

それに対し良寛は
万葉、論語、寒山詩、その他多くの外典を耽読した点で、すでに道元の教示からはずれており(以下略)

私は、道元や良寛の時代と、今とで異なるものが二つあると考へる。
1.当時は、自分や他人や社会全体を含めて仏道だったが、今は自分、他人、仏道が別々にある
2.当時は、大乗経典がすべて仏説と信じられてゐた
そのため私は、1.から任に至り、2.から曹洞宗を越えるいはば全仏道とも云ふべきものを良寛は目指した、と考へる。
円通寺時代に仙桂和尚は、
国仙和尚のもとにありながら、参禅もせず読経することもなく、黙々として園菜を作り(以下略)

良寛は後年、そのことを思ひ出し、詩の中で
仙桂和尚は真の道者

と詠った。私も座禅会に参加してこのことはすぐ判った。坐禅せず警策を持つ僧は、無意味なことをしてゐるのだらうか。そんなことはない。だから曹洞宗の僧侶と坐禅参加在家は、そのことがよく判ってゐるはずである。
良寛は、坐禅や読経を五合庵でも、行った。しかし清貧に生きることを示すことに、坐禅や読経と同じ価値を見出したのであらう。
園菜を 作る和尚に 良寛は 真の道者と 気が付いた 後に良寛 清貧の 僧の姿を 人々に 示すことにて 同じ立場に


九月十一日(土)
良寛の五合庵時代について
しかし彼は世捨人ではない。人嫌いでもなく(以下略)

と長谷川さんは書く。そして人が訪れないことを淋しいとする詩と歌をたくさん紹介する。私が思ふに良寛は、儀礼言辞や駆け引きが苦手だったのではないか。だから、親友たちが来ない日は淋しく思った。また子供たちと遊ぶときは、儀礼言辞や駆け引きが不要だった。
良寛が酒を好んだことについて、円通寺でも祝ひのときは酒が出たし、そのことを批判することはしない。喫煙については、今から二十五年前にタイで多数の南伝比丘が煙草を吸ふのを目撃した。飲酒は、釈尊の定めた戒律で禁止されるが、喫煙は項目に無いためだ。その後、煙草を吸ふことはタイでも無くなったと思ふ。
良寛が遊女たちと会話したことについて、良寛は売春宿に客として行った訳ではない。相手が誰であっても等しく扱ふ良寛の、褒められる行為と見た。
終年遇わず穿耳の客

について、良寛が当時の知識人や富豪と付き合ひながらかう云った理由を、長谷川さんは何ページにも亘って書くが、穿耳の客とは達磨大師のことではないのか。達磨大師のやうな人に会はないのは当然である。(終)

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