千五百九十ニ(和語の歌) 注目すべき歴史記事(豊臣家を滅ぼしたとされる「梅毒」豊臣寄り武将が次々と)
庚子2021
六月十三日(日)
日刊ゲンダイDigitalに
豊臣家を滅ぼしたとされる「梅毒」豊臣寄り武将が次々と…【人生に勝つ性教育講座】#2

と云ふ記事が載った。性感染症専門医尾上泰彦さんが書いたもので
秀吉は裸一貫から成りあがって天下人になりますが、1598年に亡くなります。死因についてはさまざまな説がありますが、そのひとつに梅毒があります。

詳細には
秀吉の晩年は、衰弱が激しく、下痢や腹痛、食欲不振に数カ月でやせ衰えていたことがわかっています。そのため、死因は大腸がんなどが考えられるのですが、そのひとつとして梅毒も挙げられているのです。

今回の記事で注目すべきは
1495年にイタリアのナポリに上陸したフランス軍・傭兵から発見され、欧米に広まりました。(中略)日本では16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。そのせいなのか、豊臣家に忠誠を誓った武将の多くは梅毒と思われる病気でなくなっています。

具体的には
たとえば、加藤清正です。(中略)家康と豊臣秀頼との間で行われた「二条城での会見」(1611年3月)を取り持つなど和解をあっせんしましたが、その3カ月後に亡くなりました。死因は梅毒と言われています。清正と共に二条城での会見を取り持ったとされる、浅野幸長(よしなが)もその2年後に梅毒で命を落としたと言われています。

我が国へ 入る物には 良い事と 悪い事とが 混じり合ふ 気をつけないと 国を亡ぼす

(反歌) 信長と 秀吉そして 黒船と 三つの時に 呪ひが入る
(反歌) 三つより 更に大きく 入ったは 先の戦に 負けた後の世
更に
家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去したと言われています。
その結果、力を失った豊臣家に代わって家康は天下を取ることを決意したとも言われ、秀吉が亡くなって17年後の1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまうのです。

一番悪いのは、秀吉の女癖の悪さだ。だから周りの者たちが真似をした。二番目に悪いのは、朝鮮出兵だ。尾上さんのシリーズ第一回目の
人生に勝つ性教育講座 正室2人側室16人以上 徳川家康はなぜ未亡人ばかり相手にしたのか

では
家康は生涯2人の正室を持ち、16人以上の側室を抱えたそうですが、その多くは未亡人でした。理由は、加藤清正や浅野幸長ら同じ時代に生きた有力な戦国武将の多くが「梅毒」で亡くなったからといわれています。

これについて
真言宗の高僧の日記では清正の最後は「身もこかれくろくなられける」と書かれています。今でいう劇症肝炎などによる急性黄疸ではないでしょうか。これは梅毒の特徴のひとつです。また、「当代記」には浅野幸長が梅毒で亡くなったとの記述があり、清正も「ひとへに好色の故、虚の病」と書かれています。

記事の冒頭は
子供の頃から努力をしてせっかく世に出ることができてもセックスで失敗して人生を棒に振る人はなんど多いことか。

で始まる。ここでは性病だけではなく、スキャンダルで離婚や、人気が無くなった芸能人を挙げてゐる。そして、最近梅毒が急増してゐるさうだ。
安全で幸福な暮らしを実現するために長い年月かけて作り上げてきた今の社会システムの中で暮らす私たちは、社会を壊しかねない不倫を認めるわけにはいきません。ルールを破れば社会的制裁を受けるのは当然で、それは人生の負け組に転落することにもなりかねないのです。

同感である。(終)

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