千五百九十ニ(歌) 注目すべき歴史記事(本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに)
庚子2021
六月十一日(金)
日経BizGateに
本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに

と云ふ記事が載った。この記事が貴重な理由は、織田家の組織について、軍団方式が昔から続いたと思ひがちだが、それは本願寺と和睦したあとのことだった。記事はまづ本能寺の変について
最新研究では、織田軍団内における重臣間の派閥抗争の影響が光秀のクーデターに結びついたと指摘されている。いわば役員間の争いが、巡り巡ってクーデターを引き起こし成功した形だ。現代の企業社会にも通じるガバナンス(統治)の死角を藤田達生・三重大副学長に聞いた。

これは面白さうだ。
「織田政権のパワーの源泉は尾張衆と呼ばれる家臣団、近畿地方の服属大名衆、前政権を支えた足利幕臣らで構成されている。信長は柴田勝家ら年長の老臣らと協議して方針を定め、荒木村重ら新参の家臣に統一戦を命じ、光秀ら旧幕臣に京都を中心とした行政などを任せていた。全てを信長一人の独断で決めていたわけではない」

ここまで読んで、京都の行政を担当した光秀がその職を解かれ、軍団長専任になったため不満を持ったのか、とまづ思った。しかし記事は続けて
「ただ天正8年(1580年)に宿敵の大阪本願寺との長期戦を制してから専制化の傾向が強まった。(中略)織田軍団の組織再編にも着手した。具体的には軍団長クラスの異動(国替)と抜てきだ。以前から北陸を担当していた柴田に続き、滝川一益が関東へ総司令官の形で異動した。中国・四国地方の総司令官の地位をめぐり、水面下で秀吉と光秀との生き残りをかけた争いが始まった」

一瞬だが、京都の行政担当を解かれたことが不満の原因と考へたから、軍団長の地位を争ったと云ふのは意外だ。
「信長の専制化に伴い近習らの政権内部における権勢も高まった。秀吉はいんぎんな姿勢で接し、(以下略)」
「光秀は畿内を担当し、近習らとは格が違う大物の信長側近という立場だ。遠隔地の司令官だった秀吉と違い、信長の周囲を固める若手らと顔を会わせる機会は多かったが、(中略)政策方針や段取りの進め方などで潜在的なライバル関係にあっただろう」

これならあり得る。
「本能寺の変は怨恨説や黒幕説だけでは説明し切れない。さまざまな要因が絡み合い、そのひとつが前政権の首班だった15代将軍・足利義昭の存在だ。毛利家に亡命中だったが、足利幕府の歴史の中で将軍が京都を一時離れるのは珍しくない。歴代の将軍も情勢が好転すると亡命先から凱旋した。京都追放後も信長側から和平を申し出たように、当時の義昭はまだ一定の政治力を保持していた」

ここで記事の前半に戻ると
「わずかな期間に台頭した信長が中央政権を運営するには、光秀の手腕と人脈が必要だった。(中略)対毛利戦の前線で苦闘していた秀吉を外して、天正8年(1580年)に光秀は朝廷ルートなどを駆使して講和を画策し、信長がそれに一時乗りかけたこともあった」
「ただ秀吉も鳥取城を陥落させ、淡路を支配下に置くなど目に見える業績を上げて巻き返した。さらに信長の子息である秀勝を自分の後継者に迎えた。甥の秀次(後の関白・豊臣秀次)の養父となった三好康長を信長に近づけるなどして織田政権内の勢力を拡大した」

本能寺の変の原因について、私は軍事偶然空白説で、その誘因として重臣たちが信長に反感を持ち始めたため、光秀は戦後処理がうまく行くだらうと考へた。
藤田さんは、光秀の和平戦略に対し、秀吉が軍事で進展したためだとする。また、織田政権内で勢力を拡大したためだとする。
私と藤田さんに、意見の相違はあまりない。誘因が何かの話だ。主因は京都に軍事空白地帯を生じた為、光秀が深く考へずに攻めたことだ。あの時代、裏切ったり裏切らせたりは日常茶飯事だった。あと一つ注目すべきは、記事の最後の
「信長は徹底した合理主義者で、天下統一に備えた革新的な政治思想と改革プランをかなり明確に描いていた。人物評価の標準も役に立つかどうかで、忠誠心は2番目だった。信長は反逆行為そのものに怒るのではなく、謀反のせいで予定した改革を遅延させられることに激怒していた印象だ。光秀を含め信長に反旗を翻した荒木村重、松永弾正らは、みな畿内の有力大名だった。信長の革新性を認めつつも前時代の良い点も知り、信長のように思い切りよく捨てきれない心情があったのだろう」

私は、信長の専制が荒木、松永らの謀反を起こしたとする立場だから、本能寺の変は歓迎だ。しかし藤田さんの主張が正しいのなら、信長はもっと生かすべき人材だった。
信長が 残忍なのは 西洋の 思想が入り そのために 悪魔の思想 唯物論に

(反歌) 単純の 唯物論は 西洋の 思想が入り 直後に起こる 江戸の末期も

六月十二日(土)
信長は、天下統一への革新的な政治思想と改革プランを、持ってゐただらうか。天下統一への手段として革新的な方法は持ったが、統一後の革新的な案は持たなかったのではないか。
武田や上杉に高価な物を贈りお世辞の手紙を書くやり方は、旧来の大名と変はらない。織田家の組織が大きくなるにつれ、近習や、信長の子を養子に迎へた秀吉の権力が向上したことはあるだらう。そして秀吉に逆転されたことも事実だらう。それなら尚のこと、天下統一後の案は持たなかった。
信長が 革新ならと 一旦は 応援したが 元に還った
(終)

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