千五百九十(和語の歌) 今回は十冊借りた(大島花束、原田勘平訳注「良寛詩集」)
辛丑(2021)
七月二十九日(木)
大島花束、原田勘平訳注「良寛詩集」は、漢文、書き下し文の下に、難しい単語の解説が下の欄外に入る。書き下し文で読むと、漢詩の美しさを鑑賞できるから、優れた書籍だ。
入矢義高さんの「良寛詩集」は優れた著作だが、日本語訳の詩に入矢さんの意識が入ったものもある。その点、書き下し文だと安心だ。
最初の詩は「僧伽」で
落髪して僧伽となり
(中略)
晝夜浪(みだり)に喚呼        〇喚呼。呼びさけぶ。讀經したり、説教したりすること
秖(たゞ)口腹の爲の故に
(以下略)

これは当時の仏道界を強烈に批判した詩だ。二番目の「唱導詩」は
風俗年々に薄く
(中略)
祖道日々に微(かすか)なり
師は盛んに宗稱を唱え        〇唱宗稱。盛んに各宗派を述べたたへた。
(中略)
法にして倘(も)し宗を立つ可くんば
古聖孰(た)れか爲さざらん。
五家(中略)八宗(以下略)

この詩は宗派に分かれたことを批判するもので、五家は禅宗が分化したものだから禅宗の批判、八宗は華厳、天台、真言などだから各宗派の批判だ。良寛が将来に、各宗派を超越することの源泉をここに見る。柳田聖山さんの「良寛 漢詩で読む生涯」を読んだときは、この二つの詩から渡航説を導くことに賛成だったが、別の本から読むと、渡航説の根拠とは気付かない。
その次の「之則の物故を聞く。二首」では
西海は我が卿に非ず

に渡航を感じず、飯田利行さんの「良寛詩との対話」を読んだときとは異なる。その理由を探ると飯田さんの著作では
西海は我が土(くに)にあらず

だ。僅かな違ひで、印象がまったく異なる。
我が国は 書き下しにて 漢詩(からうた)を 読めば新たな 美しさあり


七月三十日(金)
良寛は、仏道を真に悟ったのだらうか、それとも仏道を踏み外したのだらうか。多くの人々の意見は、二つに分かれる。 七十一頁の
古佛の教法を留めしは
人をして自(みづから)知らしめんが爲なり。
若し人自(みづから)知了せば
古佛何の施す所あらんや。
(以下略)

これを見れば、真に悟ったと思はれる。一方で百四十頁の
若し人自(みづから)知了せば
古佛の經を持すと雖(いへども)
祖師の禪に參するに懶(ものう)し。
(中略)
一たび法舎を出でしより
錯(あやま)つて箇(こ)の風顛(フウテン)と爲る。    〇風顛。風流の狂人。

これを読むと仏道より文学者が優った気もするが、良寛は欲に執着しないことが成仏だとしてそれを実践した。(終)

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