千五百九十(歌) 良寛に関する書籍(別冊太陽「良寛 聖にあらず、俗にもあらず」)
辛丑(2021)
六月十二日(土)
2008年に出版された「別冊太陽 良寛 聖にあらず、俗にもあらず」は、六冊の中では最も客観性に優れる。この本を無視しようと思ったのは「聖にあらず、俗にもあらず」だ。良寛は還俗しなかったから、この記述は正しくはない。しかし良寛の漢詩に
此生何所似
騰騰且任縁
堪笑兮堪嘆
非俗非沙門
蕭蕭春雨裡
庭梅未照莚
終朝囲炉坐
相対也無言
背手探法帖
薄云供幽閒

とあることを知り、改めて読み直した。2008年の出版。単行本ではなく、著者もコラムを含めると多数だ。その弊害が早速現れる。「遊ぶ良寛」と云ふまえがきに
出家僧の借り着を脱ぎ捨てて、子供たちといつまでも遊びつづける良寛の姿である。そういう良寛と子供たちに、夕陽が微笑みかけている。

出家僧の衣は、借り着なのだらうか。出家僧こそ、本当の姿だ。山折さんは、どういふ根拠で借り着と云ったのか。雑誌の別冊だから、と軽い気持ちで書いたのであらう。だから根拠は述べなくていいが、「夕陽が微笑みかけている」と低俗な表現になった。
第一章は立松和平さんの「良寛という生き方」で、これは良質だ。良寛が出家したのは、瀬戸内海の円通寺か、或いは地元の光照寺か、両論を載せるところもよい。六冊のうち他の書籍は、持論に固執し他論を批判するものが多く、その中で前回紹介した石田吉貞「良寛 その全猊と原像」は、自説を述べる時は根拠も示すから、まともだった。立松和平さんの執筆が優れるのは、時代がさう云った弊害を過ぎたためか。
漢詩の二行目と三行目に
君に杯酒を進む 暑を避くるの情。
一樽酌み尽くして 詩賦を催し

とある。解説には
同じ円通寺時代でも、年月が少し経過すると、(中略)たまには禁酒もとかれ(以下略)

とある。隠遁時代に酒の詩歌があることは、還俗を意味しない。
この雑誌別冊は、九つのコラムをそれぞれ別の人が書く。「良寛はなぜ乞食僧(こつじきそう)になったのか」と云ふコラムは、法政大学教授を名乗る女性が書いたが、よくない。
良寛のことを考えていて、ふとアメリカ人の友人の顔が浮かんだ。

で始まる文章が、全体の1/6を占める。そんな話題は読みたくない。良寛のことを書いてくれればよい。雑誌の別冊は、かう云ふ感覚で書く人がゐるから困る。
立松さんの第一章は、次の文章で終る。
戒名は「大愚良寛首座」である。墓地は木村家と隣接した浄土真宗隆泉寺と定められ、現在もそこに建っている。

戒名は曹洞宗の僧侶のものだ。次のページからは写真、コラムが続く。写真と解説文によると、良寛の墓は木村家墓地中央にあり、良寛禅師墓とある。
第二章良寛遺墨は、判らないので割愛し、良寛略年譜に行きたい。国仙和尚から印可の偈を受ける八年前の二十八歳のときに
亡母三回忌に一時帰郷か(七回忌にも一時帰郷の説あり)。

とある。全国行脚の前だから、帰郷したときは将来を誰もが期待したことだらう。
良寛が七十四歳で亡くなったとき、葬儀の導師は曹洞宗徳昌寺の活眼大機和尚、五宗派十六ヶ寺の僧が読経。その翌年、木村家墓地に「良寛禅師墓」建立。
良寛は 還俗せずに 死を迎へ だから非俗は 正しいが 並みに非ずを 非沙門と書く

(反歌) 良寛は 修行を止めて 詩と歌と 書に没頭し 隠遁したか(終)

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