千五百九十(歌) 良寛に関する書籍(石田吉貞「良寛 その全貎と原像」)
辛丑(2021)
六月六日(日)
良寛の生涯を記した書籍を新たに六冊借りた。そして前に読んで不快に思った書籍もそこに入ってゐた。吉野秀雄「良寛」で、第一部の小伝は悪くはない。ところが第二部の良寛歌評釈で、xxの歌に比べxxの歌は悪い、xxはだめである、と云ふ書き方をすることがある。多くの人が選歌するが、選歌者の志向が判るとともに、作者の歌も誉めるので良いことだ。それに対し、吉野秀雄は自分が良寛より優れると思ったらしく、こんな書き方をする。(六月九日追記、良寛の歌で紹介した「良寛歌集」も吉野秀雄が著者だった。こちらも本文の註釈に「xxは間違ひ」などがあり、嫌な書き方だとは思ったが、他の書籍よりはましなので、これを用ゐた)
六冊の中には小説もあり、出家前など興味の薄い部分はページ読みになったが、それ以外は楽しく読むことができた。良寛の一生の記述について、それぞれの書籍の間では相違が多い。その中で一番正しいと思はれるのが、昭和五十年に出版された石田吉貞「良寛 その全貎と原像」である。この書籍は五部からなり、「第一部家」と「第二部生涯」が優れる。
良寛が 釈尊達磨 道元と 同じ生活 始めても 幕府の寺社と 本末の 統制により 本当の 修行の機会 国内に無し

(反歌) 良寛は 生活同じ 修行無し その関心は 書と詩と歌に
曹洞宗で云へば、坐禅の時間を長くしたり作務(さむ)をたくさんすることは、修行を厳しくしたと一般には考へられてきた。しかし我慢大会ではないから、厳しくすることは修行とは別次元の尺度だ。檀家に頼らない生活は、貴重な修行だ。そして良寛は実行した。

六月七日(月)
「第三部内部生活」の第二章禅での、漢詩の解説は貴重だ。良寛が禅を捨ててしまったのではないかと云ふ一部の人たちの意見に反論し、漢詩に書かれた禅への篤い思ひを解説してある。この内容は膨大なので「良寛 その全貎と原像」を読んでほしい。
ここでは特筆すべき内容に留め、まづ「自師去神州」の解説に
禅師がこの国を去ってから

とある。「神州」を調べると、日本や中国が自国を誇った表現とある。ここでは道元が日本を去ってから、であらう。
粤有吾永平 粤(ゑつ)にわが永平有りて

の粤を石田さんは越中と解説された。なるほど粤は日本でも、越前、越中、越後に使へることが判った。
第三章隠遁は、最初は不同意の章だった。隠遁は目指すものではなく結果として起きるものであり、西行や芭蕉などそれぞれ事情が異なる。良寛は曹洞宗の僧が高じたものと私は判断したためでもあった。
しかしよく読むと、隠遁の求めるものは芸術である。これについて
大自然様式の隠遁の最高の到達は「風雅」であった。

として芭蕉の言葉を引用し
風雅とは、造化にしたがうことと、四時を友とすることとの二つである。造化に従うとは天地大自然にしたがうこと、四時を友とするとは春夏秋冬の風月を友とすることである。

さうなる理由として
かれらは、生きる目標としてはじめは真実(信仰)だけを求めたのであるが、それではあまりにきびしすぎたがために、いつしか美を併せ求めるようになり(以下略)

きびしすぎたためではなく、美の感覚があったためそれに向かったのだと思ふ。きびしすぎたためだと、美の感覚を持たない人は死ぬまできびしいことになる。しかしこれは些細な問題だ。石田さんの二つの表現「アジアの絶望の思想無常が」「アジアの不可思議といわれる禅の極致」はよくない。しかし486頁のうちのわづか29文字だ。そこが、書籍のほとんどが西洋かぶれの1980年頃からの西洋猿真似学者との相違だ。
新教は 原理主義にて 背教の 唯物論が 現れて ヨーロッパでは 不可思議な 地球滅ぼす 野蛮な思想

(反歌) 西洋の 唯物論は 資本主義 リベラルなどで 悪魔の思想

六月八日(火)
良寛は人付き合ひが苦手で、晩年は憂鬱感が漂ふ。だから気難しい人だと勘違ひしてしまふが、第四章暗愁によると
晩年の良寛の内部には、しだいに夕霧のような暗さがたちこめるようになった。(中略)良寛といえば、だいたい明かるい坊さんであった。(中略)かれの明かるさは、禅の深い修得にもとづくもので(以下略)

まづ現代の私たちは、良寛が暗い坊さんだと誤解してはいけない。石田さんは、良寛が晩年に暗くなった理由として
老愁が起これば老愁に任せるがよく、無常の怖れがあるならばその怖れに任せるのがよいというのが、かれの悟りであったといえそうである。

この結論に大賛成だ。ここに至る前に、(1)長くまじめに隠遁に留まり過ぎた、(2)父や弟の自殺に見られるやうに良寛の家系、(3)禅の悟りつまり任運の悟りの弛緩、の三つを挙げて、それらの大否定だから素晴らしい。
一つ難点を挙げると、曹洞宗は禅宗だから坐禅だけをやればいい、と云ふ訳ではない。読経や仏像への給仕や信徒への説法が必要だ。これらを抜きにして坐禅だけやっても、挫折するだらう。良寛は坐禅を続けたし、おそらく読経も怠りなかったことだらう。しかし仏像への給仕や信徒への説法はどうだったか。
坐禅だけ 目指す思想は 原理主義 釈尊以後の 膨大な 比丘と比丘尼を 無視して起きる

(反歌) 原理主義 途中の流れ 無視をする 洋の東西 どちらにもある

六月九日(水)
「第四部人間良寛」は論評を控へたい。石田さんと意見が異なるが、私自身よく判らないためでもある。「第五部詩と歌」の第三章和歌で、石田さんは次のことを述べる。
・良寛の和歌は西行的である。西行は新古今調の韻律(三句切れ、体言止め、同音同字母音の繰り返し)を持つものの、他の特徴(華麗妖艶、題詠、技巧的)は持たない。
・しかし良寛はしだいに万葉的に傾斜した。(終)

メニューへ戻る 歌(百三十の一)へ 歌(百三十の三)へ