百五十九、石原都知事の発言が正しい理由

平成二十三年
三月十五日(火)その一「JR東日本批判と節電主張」
石原都知事がJR東日本を批判した。節電についてもネオンやコンビにの深夜営業を規制すべきことを主張した。正論である。石原氏の主張が正しい理由は西洋の猿真似ではなく自分の意見で述べたからである。
そこがニュージーランド地震の真似をして官邸の記者会見に手話通訳を付ける偽善菅直人との違ひである。

三月十五日(火)その二「天罰発言」
石原都知事は翌日にもう一つ発言をした。「震災に対する日本国民の対応をどう見るか」と報道陣に問われ
「スーパーになだれ込んで強奪するとかそういうバカな現象は、日本人に限って起こらない」「我欲に縛られ政治もポピュリズムでやっている。それが一気に押し流されて、この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」

ここまでは同感である。天罰といふのは自然を破壊し我欲に縛られポピユリズムで政治をやつてきた人類に対してであつて被災者に対してではない。だから「被災者の方々、かわいそうですよ」といつてゐる。ただし時期がよくなかつた。救助活動が完了し犠牲者の四九日も過ぎたのちであればよいが救助活動の最中であつた。
だから宮城県知事が不快感を表明し石原都知事は発言を撤回した。

なお私は石原氏の発言にすべて賛成してゐるのではない。次の発言には反対である。
「アメリカの国家的アイデンティティーは『自由』。フランスは『自由と博愛と平等』。日本は無い」

自由のない世の中で自由を叫ぶのは尊い。自由と博愛と平等のない世の中で自由と博愛と平等を叫ぶのも尊い。しかしこれらを獲得した後も叫ぶのは下心がある。それは西洋は優れてゐるといふ思ひ上がりと他地域に対する干渉である。
国家にアイデンテイテイーは要らないし、もし要るとすれば先祖から受け継いだ文化を子孫に伝へるといふことであろう。

三月十五日(火)その三「創造主の作つた欠陥品」
私も今回の災害で人類への天罰だと思つたことが一回ある。それは福島原発の二回目の水蒸気爆発で黒い煙が上がつたときだつた。一回目の水蒸気爆発のときに或る大学教授が「煙が白いので黒鉛は含まれておらず格納器は破壊されなかつた」とテレビで語つた。二回目は黒煙が上がりそれも一回目の三倍の高さまで上がつた。炎も見えた。機械の破片が幾つも上空まで上がつた。あれを見て人類はつひに核分裂生成物を地上にばら撒いてしまつたのかと思つた。あのとき私は人類に対する天罰だと思つた。これで人類は今までのような贅沢はできなくなると思つた。
核分裂を起こすのは宇宙全体の物質のなかでごくわずかだ。分かり易く言へば世界中のほとんどのATMは預金がなければ現金を引き下ろせないが世界で5台だけ下ろせる機械がある。実は欠陥品である。創造主の間違へたこのわずかな欠陥品でまずは原子爆弾、次に原子力発電を行つてゐるのが人類である。

三月十六日(水)「JR東日本」
JR東日本は本当に対応が悪い。昨日は朝の通勤時間帯に駅の周りに長蛇の列が出来て割り込み騒ぎもあり大変な騒ぎだつた。念のため並行して走る私鉄の駅に行つたらこちらはがらがらで待たずに改札に入れた。
土曜の逆である。土曜の朝はJRが七時に動くといつておきながら動かないから私鉄の駅は改札の外に人が殺到した。昨日は逆で私鉄はがらがら、JR東日本は大変な混雑だつた。それでゐて振替輸送はしなかつた。石原都知事のほかに誰かJR東日本を批判したか。菅や枝野はパフオーマンスだけだから東電は批判してもJR東日本は批判できない。国民の立場とは異なつてゐる。石原氏は貴重な政治家である。

三月十七日(木)「節電法を制定しろ」
石原氏が政令で節電すべきを述べたのに対して、枝野は「節電は法規範で縛つてできるものではない」と反対し、身近な節電努力の積み重ねが必要だと強調した。
政令も必要だが法律も必要である。国会は半日で節電に関する法律を可決できる。すぐに公布し翌日から施行すべきだ。無駄な電力は削減すべきだ。エレベータは通常の三割、照明は通常の半分、自動販売機は業者ごとに七割減、ネオンサインは禁止、時差通勤通学を地域別に割り当てラツシユ時の電車は半減、工場と事務所は夜間操業。テレビの娯楽番組は禁止し喪に服す。
これで停電を回避しよう。それにしても枝野といふのは無責任な男だ。身近な節電努力の積み重ねが必要といふことは政府は何もやらないといふ事だ。

三月十九日(土)その一「低俗番組は自粛させろ」
戦後最大の大災害なのに、テレビは低俗な娯楽番組を流す。これは許し難い。家庭のテレビと放送局の電力が無駄になる。停電対策を兼ねて国会は低俗番組自粛法を半日で可決し翌日から施行すべきだ。
新聞にも許しがたい記事がある。福島県から他県に避難する人の記事である。福島から他県に避難する必要はない。政府の指示どおり30kmで十分である。
まず地震直後あたりに放射線濃度がわずかに上がつた。このときテレビに出演した大学教授などの主張はよくなかつた。日本の原子力は世界でも優秀だとか一年間の許容値の五十分の一だとか言つてゐた。外部被爆と内部被爆は異なることをなぜ隠す。
その後事態が悪化し放射線濃度が上がつた。福島から他県に避難する記事が載るようになつた。濃度が高いと言つても健康に被害がある訳ではない。30km以外の地域は心配いらない。それなのにこういふ記事を載せて心配を煽る。新聞といふのは無責任なものだ。結果の責任を取らないからこういふ記事を書く。

テレビと新聞について批判すると、言論の自由だとか民主主義だとか言ふ人がいよう。言論の自由と民主主義は社会をよくするためにある。社会をよくするためといふ前提を忘れた言論の自由と民主主義は有害である。前提を忘れた言論の自由と民主主義が新自由主義であり民主党前原枝野派と朝日新聞である。

三月十九日(土)その二「便乗値上げを許すな」
宮城県内には河北新報といふ地方紙がある。そこのWeb版に次の記事が載つた。
栗原市内の複数のガソリンスタンドが東日本大震災後、ガソリンや灯油の小売価格を大幅に引き上げた。現在は、在庫切れで販売していないが、市民からは「便乗値上げではないか」との批判が出た。
あるスタンドは地震翌日の12日、レギュラー、ハイオクとも価格を1リットル200円に上げた。地震前と比べ40~55円程度の値上げ。

河北新報の記事は時期に適つた良質な内容である。人間はともすれば安易な金儲け、安易な買占めに走りやすい。そういふ社会に住むのは嫌だがだからと言つてあの世に引つ越す訳にはいかない。だからこの世を良くしよう。そういふ思想が石原都知事の発言の根底にある。
それに比べて菅や枝野はどうか。自由競争だ、民主主義だと繰り返すだけで新自由主義が根底にある。だから内閣が発足するや消費税増税と企業減税を言ひ出し、大地震が起きるや自分たちが目立つことばかりを考へる。蓮舫と辻元の起用もその一つである。

三月二十七日(日)「国民の目線」
私が石原氏に注目したのは今から三五年前である。石原氏が環境庁長官のときに公害病裁判で患者側が勝訴し、工場に爆弾を投げたいくらいだと発言したときである。普通の政治家はそういふ発言はしない。自分の議席や与党だつたら大臣やその他の地位だけが気になるからである。

最近二十年ほどでよくないのは死刑廃止に対する大手マスコミの偏向記事である。欧州が廃止したのはXX教文明に始まる長い歴史の流れからであり、アジアやアフリカがそのまま真似をすると大変な反道徳社会になる。
日本では明治維新の前までは人を殺せば死刑、十両以上盗んでも死刑。これは今でも心情としては合つてゐる。金を盗んだだけで死刑といふのは重すぎる気もするが、東北大地震で価格を吊り上げたガソリンスタンドや義援金詐欺や義援金を集めてゐた高校生を脅して金を盗んだ者などは死刑にしたほうがいいと多くの国民は思ふ。むろん厳罰だけではいけない。そうならない世の中にすべきだ。
江戸時代には仇討ちといふ制度があつた。親や兄を殺されたときは仇討ちをしてもよいが子や弟を殺されたら駄目である。これも世の中の争いを少なくしようといふ知恵であつた。決して殺されたら同じだけ殺してもよいとか、今のアメリカ軍やイスラエル軍のように殺されたら十倍にしてやり返せといふやり方ではない。

今の大手新聞は被害者や善良な国民の感情を無視して犯人の人権ばかりを騒ぎたてる。その原因は西洋かぶれによる国民の目線の欠如である。政治家も同じである。その意味で石原氏は貴重な政治家である。

三月二十九日(火)「非西洋地域での殺人犯の扱ひ方」
欧州は宗教改革とその後の三十年戦争とイギリス革命とフランス革命と第2次世界大戦に至るまでの植民地獲得戦争とその後の独立戦争などを経て死刑を廃止した。欧州以外は真似をしてはいけない。
とは言へ殺人にも情状酌量があろう。死刑執行猶予の懲役が日本にもあつてもよい。死刑執行猶予無期懲役や死刑執行猶予懲役十年などである。執行猶予は終生続く。その間に問題を起こしたら執行すべきだ。

絞首刑は残酷である。それは日本の伝統ではないためだ。千葉景子氏は法相時代に死刑を見学したがそのことに気がつかなかつたか。千葉氏はどこに目を付けているのか。
あだ討ちについて先日言及したがこれは恨みを減衰させる例として挙げた。決して仇討ちは良い制度ではない。仇討ちを例に日本の制度は残酷だと主張する西洋猿真似ニセ学者がゐるため併せて言及した。

このようなことを今の国会議員は述べられない。だから本音で語る石原氏は貴重である。

四月一日(金)「政治家失格蓮舫」
石原氏が花見の自粛を呼びかけた。戦後最悪の大震災を考へれば国民の九割は賛成しよう。ところが蓮舫が次のように述べた。産経新聞によると
石原慎太郎知事が桜の花見について「一杯飲んで歓談する状況じゃない」と自粛を促していることに対し、「権力で自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべきだ」と反論した。
 また、一部にコンビニエンスストアの深夜営業を自粛すべきだとの意見があることにも「夜間の電力は、現段階では相当余っている。コンビニや自動販売機の夜間の照明は、治安的にも意味がある」と述べ、不必要だと強調した。
 その上で「電力があるにもかかわらず経済活動を公の力で制限していくということが、わが国の経済にとってどのよう影響があるのかも冷静に考えるべきだ」と訴えた。

蓮舫は平時と非常時の区別がつかない。菅にそつくりである。非常時に「権力で自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべきだ」と発言する人間に政治家の資格はない。リベラルを叫ぶ新自由主義の醜さがつひに現れた。
規制が過ぎれば自由経済にするし自由が過ぎれば統制が必要である。昔は徳政令と称して借金を棒引きにすることさへ行われた。ところが蓮舫は数年前の派遣切り騒動など自由経済が行き過ぎたのに「権力で自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべきだ」と述べる。

四月二日(土)「菅は蓮舫を罷免しろ」
「夜間の電力は、現段階では相当余っている。」は間違つてゐる。この時季は夜がピークとなる。ピークのときに揚水式発電を行ふ。そして揚水式発電は電力の余つたときに水を上流に戻す。
しかし三つの原子力発電所のうち福島第一と福島第二は停止し柏崎刈羽は七つある原子炉のうち三つが停止中である。つまり十七ある原子炉のうち四つしか稼動してゐない。だから夜間に電力は余らない。
深夜はそれでも余るかも知れないが揚水発電に廻すか火力発電のLNGや石油の節約に当てるべきだ。節電啓発担当大臣が「コンビニや自動販売機の夜間の照明は、治安的にも意味がある」とは呆れる。電力浪費促進担当大臣の間違ひではないのか。蓮舫を罷免するか菅直人はこのような人事を行つた責任を取り首相を辞任すべきだ。(完)


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