千五百七十九(和語の歌) 1.享徳の乱、応仁の乱、明応の政変、2.「埼玉県の歴史」
辛丑(2021)
五月十三日(木)
Diamondのホームページに
多くの人が学校で習ったであろう「応仁の乱で室町幕府が弱体化し戦国時代へ」は、正しくないことが分かっている。東国では応仁の乱の13年前、1454年に始まる「享徳の乱」から、全国的に戦国の世になったのは応仁の乱ではなく、「明応の政変(明応2年、1493年)」からだという説が研究者の間で有力になりつつある。

今回注目したのは、享徳の乱(1454~82年)だ。我が家が浦和に引っ越したあと、父の買った「埼玉県の歴史」の本があり、そのとき読んだ。結婚後に横浜へ移転の後も、妻子とともに実家に行ったときは、この本を毎年再読したものだった。
読むのは、山内上杉家と犬懸上杉家の対立に始まる禅秀の乱(1416年~)から享徳の乱を経て長享の乱(~1505年)までと、利根川、荒川などの治水だ。
禅秀の乱から長享の乱まで八十九年間、関東では断続して戦が続いた。だから室町時代は、最初の六十年は南北朝の戦乱、後半は関東が戦状態で、平和だったのは僅かと云ふ印象をずっと持ち続けた。
東(あづま)では 室町の世に 穏やかな 時は少なく 幾度も 戦の波が 押し寄せて引く

(反歌) 室町は 世の末なので 鎌倉の 仏の教へ 伝へることに
鎌倉時代に出現した仏道は、今の世に正しくはない。今を世の末と考へる人がどれだけゐるか。世界中を見渡せば、今は地球温暖化と地球破壊で世の末だ。しかし鎌倉時代の知識でこれらが解決できるはずがない。
「埼玉県の歴史」には、禅秀の乱から享徳の乱まで関東地方で起きた出来事が書いてある。だから今回インターネットで検索して初めて分かったのだが、関東の戦乱に呼応して室町幕府でも戦死者、処刑者、追放者が続出した。追放された者が返り咲くと、関東でもそれに対応して新たな戦乱が起きた。
応仁の乱が収まったあと、十六年後の明応の政変が戦国時代の幕開けとの説については、私は賛成ではない。
(1)戦国時代に続く戦闘が行はれたのは明応の政変たとしても、幕府が弱体化したのは応仁の乱であり、更にはその前から続いた享徳の乱で、既に幕府は軍事力の限界を大名たちに見せてしまった。享徳の乱は東国のみなので、応仁の乱がよいのではないだらうか。
(2)今まで、応仁の乱が戦国時代の始まりだとしたには幾つもの理由があるはずだ。それら理由の正否を検討する必要がある。今まで長く続いたものを否定すると、原理主義になるおそれがある。

五月十四日(金)
図書館で「埼玉県の歴史」を借りた。六十八頁から始まる鎌倉幕府滅亡後の歴史は、北条残党の鎌倉進撃、足利と北畠新田の戦、尊氏と直義の戦闘、上杉と高師冬との戦闘と続き、一三五二年にやっと
武蔵の地にも、ようやく小康の時が訪れた。

翌年、尊氏は不安定な京都に上洛し、十四歳の基氏が関東公方になる。五年後に尊氏が死ぬと、新田の策動、基氏の関東管領畠山国清討伐命令、尊氏に背いて信濃にゐた上杉の関東管領登用、反上杉の宇都宮氏との戦闘と続く。一三六二年である。このあと河越氏の反乱と新田氏の挙兵が一三六八年、その後も戦闘が続き、一三九二年南北朝が合一した。
南北朝が原因とは云へ、小康を挟み戦闘がほとんど続いた。そして更に一四一五年に上杉禅秀が関東公方持氏との反目で関東管領を辞任し、まもなく戦闘が開始された。ここからは昨日書いた内容に続き、扇谷上杉の家宰太田道灌の暗殺後、道灌の養子で山内上杉の家臣となった資家の孫、太田三楽斎が常陸に走る一五六四年の九十二頁まで続く。このとき既に武田信玄と上杉謙信が戦闘を繰り返す時代だから、室町時代とは東国では戦乱の時代だった。

百三十頁は、江戸時代に利根川と荒川が江戸湾にそそぐ話から始まる。利根川の本流だった会の川筋を締め切り振る利根川に流す話から、渡良瀬川、赤堀川、常陸川へ流す話へと続く。荒川は吉野川、入間川へ合流。このあと江戸川の開削と続く。

三つの上杉家と太田道灌、利根川と荒川の話は、何回読んでも面白い。実家に来るとこの本を毎年読んだ理由が判る。
武蔵にて 時の流れは 上杉と 太田の話 熱くなる 川の流れは 山並みを 急ぎ降りるは 二つあり 利根荒川を 治めるに 川筋変へて 穏やかな水

(反歌) 人治め 水治めるに 昔人(むかしびと) 武蔵の国を 鎮める努め(終)

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