千五百七十七(歌) 安国寺恵瓊の文書
辛丑(2021)
五月十日(月)
安国寺恵瓊の書いた次の文書は有名だ。
信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候
現代人は明智光秀が謀反を起こしたことを知るから気付かないが、藤吉郎が謀反を起こすと読める。信長にも一族があるから、死後は誰かが相続するだらう。藤吉郎が謀反で一族を打ち取らないと「さりとてはの者」にはならない。
光秀の 変がなければ 秀吉が 謀反を起こし 乗っ取ると 怪僧恵瓊 予想を立てた
(反歌)
秀吉の 柴田殺害 信長の 子らを追ひ出す 謀反と同じ
光秀が本能寺の変を起こした理由は、いろいろ云はれて来た。一般には、光秀が織田家中の出世頭だったのに秀吉が台頭したため、信長にも不満を抱いたとする説が有力だ。
しかし恵瓊の文書を読むと、本能寺の八年前、既に秀吉が織田家中で一番だった。ますます光秀出世頭転落原因説は不利だ。私は、軍事偶然空白説だ。信長は光秀にまったく警戒しなかった。京都が軍事空白地帯になったため、攻めた。そこには重臣たち全員が信長に不満を抱くことを考慮の上だった。
信長が 狂気になるは 西洋の 文化に触れて 神仏を 信仰せずに 自らを 神と思はす 行動に出た
(反歌)
自らを 神と思ふは 今までの 流れを捨てる 唯物思想 悪魔の思想
秀吉は、信長の子を養子に迎へた。秀吉謀反予定説は、養子を考慮してゐない。養子秀勝が信長に親近感を持ったか、それとも信長に反感を持ったか、それによって異なる。それとは別に安国寺恵瓊は、秀吉が信長の子を養子に迎へたことを知らずに、文書を書いた可能性が高い。
養子の秀勝は本能寺の変のあと、山崎の合戦、賤ケ岳の合戦、小牧長久手の合戦に参加したが、このころから病気になり翌年十八歳で亡くなった。
秀吉は 秀勝死後は 異常な亡者
秀吉は 実子生まれて 頭が狂ふ
本能寺の変の三年後に秀勝は亡くなった。今までは信長の実子として秀吉より上だったのに、小牧長久手の合戦後は秀吉の天下が確実になり、秀勝に心労が重なったとも考へられる。
一番望ましい結末は、秀勝を跡継ぎとする羽柴家が、織田家の一門として支へることだった。秀勝が亡くなり、秀吉に変な欲が出た為、朝鮮出兵、関ヶ原の戦ひ、大坂冬の陣夏の陣と、膨大な人命が失はれることになった。(終)
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