百五十六、大相撲再生
平成二十三年
二月十三日(日)「八百長事件」
大相撲が八百長事件で揺れてゐる。春場所は中止が決まつた。まず八百長に関係した者よりそれを誤魔化そうとした連中を厳しく取り締まるべきだ。携帯が壊れただとか紛失したといふ連中である。
もちろん八百長は許されない。しかし外国人力士が増えてから言はれ出したことだが、外国人力士は勝ち負けに執着する、と。その結果、マナーは損なわれ張り手ばかりが多くなり土俵の美しさもなくなり品格のない横綱まで出た。これらを放置した親方衆の責任は大きい。
八百長を誤魔化した力士は追放、相撲賭博や暴力団に係はつた力士も追放、単純な星の貸し借りは金銭の没収と出場停止に留めるべきだ。
二月十六日(水)「上が不道徳だと下は根腐れを起こす」
組織とは不思議なものである。上が不道徳だと下は腐敗する。相撲協会はまず親方制度を名跡のみに留めるべきだ。名跡のある人もない人も力士引退者は等しく親方にする。部屋は協会または一門の所有とし部屋持ち親方に貸す。タニマチと称する人からの金銭や物品の受け取りや接待は現役力士を含めて禁止する。
これらを改革しない限り、いくら対症療法を繰り返しても腐敗を再発する。
二月十七日(木)「一門別総当り制に」
昭和四九年から一四年間理事長を務めた春日野親方が、相撲界に発生した不祥事の解決を一門に任せ、一門で解決するといふ相撲界の伝統に従つたと述べたことがある。これが正解である。
人気のある競技は野球もサツカーも駅伝も皆団体戦である。相撲は一門別総当りに戻し、個人の優勝制度は廃止して一門の成績を競ふべきだ。一四勝一敗と一三勝二杯に大きな差があるか。たかが星ひとつではないか。上位力士と下位力士では対戦相手の力量が異なる。千秋楽で「一敗同志の対戦です」とNHKのアナウンサーが間抜けに叫んだところで意味がない。
二月十八日(金)「番付」
一門別総当りにすれば、一門は野球やサッカーのチームに当るから他の一門と力士同士が談合することはなくなる。
次に改革すべきは番付である。横綱と三役は別にして、一場所ごとに番付が上下するのは酷である。半年ごとにするか、勝敗、土俵態度、技能を採点し点数順に番付を決めるか、一門の成績順に番付を割り振り、あとは一門にまかせればよい。
一門を協同組合にし力士の指導に責任を持ち、相撲協会はプロ野球のリーグやコミッショナーの機能に縮小すべきだ。
二月十九日(土)「日本相撲協会は解散せよ」
「ガバナンスの整備に関する独立委員会」が一昨日、相撲協会に答申を出した。それにしてもずいぶん汚い名称の委員会を作つたものである。この世間離れした名称からしてもはや相撲協会は再生不可能である。相撲協会は解散が一番よい。
昨日も述べたように一門を協同組合にすべきだ。そして審判の所属する公平なリーグがあればよい。
二月二六日(土)「正直者には再起の機会を」
二二日に相撲協会の理事会は「正直に話せば、慎重に検討という条件付きながら、処分軽減」を了承した。八百長は絶対に悪い。お金を払つて入場した観客に失礼である。
その一方で浪曲や講談で引退する力士に大横綱がわざと負けるといふ話がある。あの話を聞いて「けしからん、八百長だ」と憤慨する人はいない。プロ野球の巨人の小林投手が江川騒動で阪神に移り、次のシーズンに巨人は小林に全敗した。あれも八百長といへば八百長だし小林への同情とも上層部への抗議ともいへる。八百長を悔悟すれば許す土壌はある。
嘘をついた者は解雇、正直者で今後二度としないなら罰金と出場停止で再起の機会を与へれば観客も暖かく見守ろう。
二月二八日(月)「館内放送」
同じ取り組みに一つの企業から幾つも懸賞が出されることがある。同じ絵の旗が連なるのも悪くはない。しかし館内放送がよくない。
「お茶漬け海苔の永谷園」「二つ目の永谷園」「しつこい永谷園」「まだ続く永谷園」
聴いているほうはそう聞こえる。放送は会社名のみに留め二本以上のときはどこの会社から何本といふようにしないと土俵の美が壊れる。
表彰式のときに「見よ勇者は帰りぬ」が演奏される。これもよくない。曲自体はよくても土俵と調和しない。日本古来の音楽にすべきだ。
三月五日(土)「再起の機会と八百長の絶滅を」
調査で八百長が判つたといふのではみつともない。自ら名乗り出て今後はしないと誓約する機会を与へるのがよい。(完)
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