千五百十三 (和歌)正岡子規全集
庚子西暦元日後(2021)
閏十一月十七日(日)(2021.1.17)
窪田空穂の次に、正岡子規の全集も読まう。さう思ひ立って、図書館から何冊か借り始めた。驚いたことに和歌は駄作ばかりだ。
正岡子規は俳諧「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」で有名になった。或いは和歌の「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる」や「松の葉の 葉毎に結ぶ白露の 置きてはこぼれこぼれては置く」が名作だ。
文芸者 和歌俳諧の
名作を 一つ作ると
有名に なることがあり 子規該当か


閏十一月十八日(月)
正岡子規は「歌よみに与ふる書」「再び歌よみに与ふる書」・・・「十たび歌よみに与ふる書」を書いた。特に「再び歌よみに与ふる書」の貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候は有名だ。
子規の云ふ 古今集の
批判には 原理主義の
危険あり それでは途中の
膨大な 和歌と歌人を 無視することに
(反歌)文芸は 文で勝負を するべきだ 論で勝負を してはいけない
子規の主張である写生の語は、私も前に用ゐたことがある。しかし私の場合は物に感じた心の写生であり、子規とは異なる。

閏十一月十九日(火)
子規全集第六巻「短歌歌會稿」760ページに窪田空穂の鉄幹と子規の考察が載ってゐる。
鐵幹は「自我の詩」を唱へて、歌としては傳統を捨て、人としては情意の解放を目ざし(以下略)
子規は萬葉集の據るべきものであることを認め、我を通して眞實を求め、冩生の心をもつてそれを徹底させようとする(以下略)

私は子規に近いが、子規は物の写生、私は心象の写生と、違ひがあることは昨日も述べた。

閏十一月二十二日(金)
私と与謝野夫婦には、共通点がまったく無い。その理由は、与謝野夫婦の和歌は西洋の影響で作った。それでいいものができれば別だが、西洋の真似をすると西洋より劣化する。政治も、労働組合も、宗教も、文芸も。
正岡子規については、名作が少ないと云ふだけだ。窪田空穂についても名作が少ないが、全体の流れを読むとこれは貴重な日記だ。
それに対し、与謝野夫婦の作品は、読むと嫌悪感がする。古今和歌集に、恋の歌がある。これは歌会などで披露し皆が喝采する、公的なものだ。与謝野夫婦の作品とは異なる。(終)

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