千四百四十八 「春と修羅 第二集」鑑賞記、続編
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
八月一日(土)
「春と修羅」と同じく、「春と修羅 第二集」を何回も読んでみた。すると気に入った詩も見つかった。まづは七五 「北上山地の春」の三だ。一と二は何とも思はないが、三は描写がきれいだ。

かぐはしい南の風は
かげろふと青い雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の班も燃える
黒い廏肥の籠をになって
黄や橙のかつぎによそひ
いちれつみんなはのぼってくる

みんなはかぐはしい丘のいたゞき近く
黄金のゴールを梢につけた
大きな栗の陰影に来て
その消え残りの銀の雪から
燃える頬やうなじをひやす

このあとの一節は、全体のまとめなので三には含まれない。

一二三「馬」は、後ろの三分の一が気に入った。特に最後の二行が美しい。
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらへて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた


四一一「未来圏からの影」は、全体が気に入った。特に最後の三行が何を暗示するのか。
吹雪フキはひどいし
けふもすさまじい落磐
  ……どうしてあんなにひっきりなし
    凍った汽笛フエを鳴らすのか……
影や恐ろしいけむりのなかから
蒼ざめてひとがよろよろあらはれる
それは氷の未来圏からなげられた
戦慄すべきおれの影だ


五一一は無題で、表現力がすごい。しかし読んだときの私の心境の違ひだらうか。すごいと感じるときと、何も感じないときがある。
……はつれて軋る手袋と
     盲ひ凍えた月の鉛……
県道みちのよごれた凍しみ雪が
西につゞいて氷河に見え
畳んでくらい丘丘を
春のキメラがしづかに翔ける
   ……眼に象って
     かなしいその眼に象って……
北で一つの松山が
重く澱んだ夜なかの雲に
肩から上をどんより消され
黒い地平の遠くでは
何か玻璃器を軋らすやうに
鳥がたくさん啼いてゐる
   ……眼に象って
     泪をたゝへた眼に象って……
丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらへあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
     かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり
   ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる……
   ……霰か氷雨を含むらしい
     黒く珂質の雲の下
     三郎沼の岸からかけて
     夜なかの巨きな林檎の樹に
     しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……
      (わたくしのつくった蝗を見てください)
      (なるほどそれは
       ロッキー蝗といふふうですね
       チョークでへりを隈どった
       黒の模様がおもしろい
       それは一疋だけ見本ですね)
おゝ月の座の雲の銀
巨きな喪服のやうにも見える

以上が、何回も読み返すうちに、慣れてきたのだらう。気に入ることが判るやうになった。

次にこれらに準じて、三三七「国立公園候補地に関する意見」は、草野心平の詩と共通の性質がある。心平が影響を受けたのか、それとも作家Xが受けたのか。

一九八「雲」は最後の三行
おい きゃうだい
へんじしてくれ
そのまっくろな雲のなかから

が楽しい。

八月二日(日)
「春と修羅」は、阿修羅(縁談の話がうまく進まなかった)の話と、トシの死。二つの山場がある。それに定型詩(mental sketch modified)が加はり、多様性があった。書店でお金を出して購入するのに値するものだった。
それに比べて「春と修羅 第二集」は、全体が単調な流れだ。第一集の出版後に、一部の人たちから称賛されたため、作家Xに慢心の気持ちが少し生じたのかなと云ふ気がする。
二番目に、僧XやX経に関係する単語が出て来ない。菩薩など仏道に関係するものはあっても、僧Xに関係するものがないのは、この時期に作家Xの関心が仏道全般、宗教全般に向かったためではないか。この傾向は、作家Xの発病とともに再び僧Xに回帰することになる。(終)

前、作家X27の一

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