千四百四十六(モリカケ疑獄百九十五の四) 縁故資本主義
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
七月十日(金)
「現代ビジネス」のホームページに、松尾匡さんの
安倍政権下でなぜ日本は「縁故資本主義」になったのか、その本質的理由

と云ふ記事が載った。
コロナ禍以降、政治家や官僚との「縁故」が悪用されていると思しき事態が相次いだ。アベノマスクの生産では実績のない企業と随意契約が結ばれており、持続化給付金事業では実態のよくわからない企業が「再委託」を行って濡れ手に粟の金を稼いでいた。
今回だけではない。安倍政権下ではこれまでも、森友学園、加計学園の問題に象徴されるように、権力者との距離によって事業を有利に進められるか否かが決まっていると思われてもおかしくないような事態が起きてきた。

松尾さんは、立命館大学経済学部の教授だ。この先の展開が楽しみだ。

七月十一日(土)
国のなすべき役割というのは、その時々に恣意的な決定をすることではなく、民間人が事前にはっきりと把握でき、そのことによってリスクが減ることになる「ルール」を制定することである。(中略)「当局者の事後的な裁量判断」が1970年代までの国家主導体制の行き詰まりの原因だったというわけである。
そして行き詰まったあとは
新自由主義は、役所が民間企業のようになるのが必要な転換と心得、トップダウンの決断を称揚したが、それは現場の情報をふまえずに人々に事前に読めないリスクを課してしまう。ところが、決定者は自腹を切ってその結果の責任をとることがないので、過剰にリスクの高い決定が行われる。

モリカケ桜IR検察庁アベマスク河井1億5000万円。リスクはすべて国民が被る。桜問題を見よう。不公平な人選と不公正な会費による無駄な出費は、巡り巡って国民の負担となる。出席者の選挙で投票が偏向する被害は、国民が被る。
もう一つ見よう。検察庁不公正で安倍批判派が逮捕されるリスクが高まるはずだった。牧口常三郎を獄死させた公明党は、もはや安倍と手を切るべきだ。逆のリスクもある。安倍に近いことで逮捕されないことは、社会正義を破壊し国民に不利益を及ぼす。

七月十二日(日)
そもそもハイエクは国家による経済規制に反対していたわけではない。民法や商法のような取引ルールはもちろん必要とされていたわけだし、それだけではなく、労働時間の制限や働く環境の維持向上、公害や環境破壊を防ぐための生産方法の規制も必要とされている。個々の民間人が事前にはっきりとわかるルールとしての規制ならば、民間人が経済活動をする際の不確実性を減らすので、それらは肯定されているのである。
そのとほりだ。
本来なくさなければならないのは、ケースごとに権力者や行政担当者が裁量的に判断し、それを民間人が事前に読めない規制である。

これも、そのとほりだ。それなのに安倍は逆をやった。

七月十三日(月)
特に日本の場合よくないのが、官僚がはっきりと指示を出さず、「ほのめかし」みたいなもので民間人を動かそうとすることである。筆者が大学院を出て最初に勤めた前任校は、商学部経済学科を経済学部に改組するための認可を文部省から受けた。(中略)官僚は直接指示を出さず「ほのめかし」のようなことを言うだけのことがたびたびあったのである。(中略)後年、森友問題で「忖度」という言葉がマスコミを賑わせた時、そうだあれは「忖度」だったと思い出したものである。

七月十四日(火)
もともと問題の焦点は「リスク・決定・責任」が一致しないことである。(中略)被害は一般民衆がかぶることになるが、決定者である官僚はその被害から免れ、(中略)国家賠償がなされることがあっても、それは決定者の負担ではない。そうである以上、いくらでもリスクに無頓着な決定がなされるということが、コルナイ=ハイエク的な批判のポイントだった。
ここまでは世界中に当てはまる。
それでも普通の国では、あまりに重大な被害が出たら、マスコミから叩かれたり、降格したり、辞職に追い込まれたりするぐらいの責任のとり方はされるものである。(中略)ところが「忖度」はその程度の責任すらとらないやり方である。

これは悪質だ。それ以上に悪質なのが
1990年代に官僚批判の世論が巻き起こった時に人々が問題視していたのは本来このような体質だったはずである。(中略)ところがこれが、規制があると競争が発生せず、非効率がはびこって生産性があがらないから、民間企業が自由に営利追求競争してコストを削減させるために規制緩和すべきだという新自由主義の議論に回収されてしまった。裁量的な判断を問題視していたはずの官僚批判も、一般公務員へのバッシングにすり替わり、人員削減、賃金抑制、民間委託を進める口実になった。


七月十五日(水)
その行き着く先として、「規制緩和」が本来必要とされていたはずの姿からかけ離れ、逆に規制緩和によって本来変えるべき体質を怪物的に強化する結果となったのが、安倍内閣であった。(中略)その典型例とも言えることが、「第三の矢」の目玉のひとつ、「国家戦略特区」をめぐる問題だった。もともとは「規制改革特区」という名前だったが、安倍政権は、名称を変更し、恣意的な規制から個人を自由にするという当初の含意を形の上でもすっかりなくした。そして中身もそのとおり、権力者がリスクのある事業をトップダウンで決めるのがいいことだという新自由主義の勘違いそのままに、特定の地域で規制をなくすことを、首相が主導して判断するものにした。
安倍は悪質な男だ。

七月十六日(木)
つまりそれまでは(中略)、官僚組織でいくぶんかは担当者個人の恣意の効かない縛りがあったものを、官僚の判断から首相(とその周辺)の判断に変えることで、ますます事後的な裁量が幅を利かすものになってしまったのである。そうすると、以前は業者が官僚に手心をもとめて接近したように、今度はさまざまな利害関係者が首相個人に接近して、「おトモダチ」になってエコひいきさせるようになることは必然なのである。
そして
加計学園問題は、このような体質の中で、当然生じた事案だったと言える。


七月十七日(金)
私見では、このような安倍首相の精神の文字通りの「象徴」となったのが、天皇の退位を皇室典範の改正ではなく、特例法で認めた措置である。この法律は、第一条に、天皇(現上皇)個人が、一生懸命がんばってくれて国民も共感しているし、高齢で公務を続けられなくなることを案じる気持ちはわかるので、特別に退位を認めてあげるという旨のことをわざわざ書いている。
つまり、誰にでもあてはまる普遍的ルールとしての法改正ではなく、人を見てその人ごとに、ケースに応じて事後的に判断する加計学園問題の精神なのである。

現上皇様の御退位と新天皇様の御即位は、多くの国民が心からお祝ひ申し上げた。しかしよく考へると安倍のやり方は、あんたは許可、あんたは駄目といふものだ。特定の検事を定年延長する閣議決定と同じだ。あのときは半年以内に検事総長が退任しないので、法律改正までしようとして大変な騒ぎになったが。(終)

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