千四百二十二 プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎「脳と瞑想」
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
三月八日(日)第二部第一章
第二部は対談で、まづ篠浦さんは、瞑想をすることで大酒飲みが治ったさうだ。
プラユキ どんな瞑想法ですか?
篠浦 今回教えていただいた二番目の瞑想に近いですね。(中略)違うのは、観察という要素はなくて、ひたすら集中するというタイプの瞑想です。(中略)酒をやめたことで少し震えがあったりしましたが、(中略)今も週末はかなり飲みますね。平日はあまり飲まないけれど(以下略)61
飲まないと震へがあったくらいかなり飲まれたのだらう。今でも週末はかなり飲むし、平日はあまり飲まないので、まったく飲まない訳ではなささうだ。
酒は飲まないに越したことはない。年齢が下がるほど飲まない割合が減るニュースを最近読んだ。これはよいことだ。タバコより三十年遅れで、酒の改善が進む。
タイのお寺について
プラユキ 僧侶が四、五十人。メーチーさんという剃髪の女性修行者が二、三十人います。65
在家向けの一週間単位の瞑想リトリートを頻繁に行ひ、百人、二百人と来るさうだ。それ以外に大学や会社単位で来たり、最近は日本からもときどき来るさうだ。ここで注目すべきは、メーチーが比丘の半数強、百人単位の在家、日本からはときどき。以上で森林寺院の様子が判る。
プラユキ アルコール依存状態の三十代の男性が(中略)最初はろれつがまわらず表情もうつろな感じでしたが、お寺で瞑想を始めて、三、四日して(中略)お酒を飲んでいないのに、どうもお酒を飲んで酔っ払ったような感覚を感じ(中略)一週間ほどの滞在でお酒にも興味を失い、元気な姿で帰っていきましたね。66
これについて
篠浦 ドーパミンはお酒を飲むと出るのですが、瞑想をしてもドーパミンが出る(中略)僕の予想ですが(中略)お酒のドーパミンは動物的な脳を活性化するので、飲むとさまざまな欲望が高まるのでしょうが、瞑想のドーパミンは動物的な脳をコントロールする自我の部位を活性化するので、快感がありながらもお酒から離脱できるのではないかと考えています。67
三つの瞑想法のうち、初めの二つは伝統的な方法で、三番目は
プラユキ 新しく編み出された瞑想ですが、うつなど、心の苦しみを抱えた方に即効的な効果がある瞑想として、最近ポピュラーになりつつあります。68
一日の瞑想時間について
プラユキ リトリートでは(中略)一日十時間ほど行います。ただ、個人で来られた日本人の方については(中略)朝晩の読経が終わったあとに、みなで一緒にやる時間がそれぞれ三十くらいありますが、日中はこちらでは関与せず(中略)あとで今日はどうだったかというような確認をします。69
リトリートで参加した人たちは十時間やらないと不十分だらう。一方で、日本から心を病んできた人は一週間と区切ってはゐない理由もあり、これがよいのだらう。
プラユキ ルアンポー・ティアン師も、最初はサマタ瞑想をやっていました。それによって禅定体験などを経験してもなお乗り越えられなかったものが、手動瞑想で乗り越えられたということです。70
その一方で、伝統的な瞑想もしたほうがいいのかと云ふ質問に
プラユキ 手動瞑想と歩行瞑想だけでも十分です。70
次の話題に移り
篠浦 念仏は、左脳ではなく右脳に入っているんです。意味じゃなくて、ただ快感。(中略)念仏を唱えることでの脳へのプラス面とマイナス面があるのではないでしょうか。
プラユキ そうですね。(中略)その恍惚状態にふけってしまえばある種のアディクションになってしまうし、同一化が激しければ、「オレ様は神だ」「仏だ」ということにもなる。(中略)念仏瞑想もそれなりの効果があると思いますが、智慧や慈悲を育む展開に進むのが望ましい(以下略)78
念仏だけではなく、題目や神の名を唱へたり、教祖の名を叫ぶことも含まれる。快感を感じやすいのは一番目の瞑想かの質問に
プラユキ そうですね。集中するタイプの瞑想で、いわゆる宇宙的な意識や恍惚感を感じたという人は少なくないですね。また、特定の美しいイメージに意識を集中しているうちに、天国のようなヴィジョンを見て愉悦に浸るなんてのもよく聞きます。79
その一方で
プラユキ 二番目のアーナパーナサティ瞑想でも、歓喜とか深い安らぎを感じてくる段階があるので、油断しているといつの間にかハマり込むことも十分にあります。私自身もアーナパーナサティをたまに行いますが、よくコズミックない色状態に入っていきます。もちろん今はハマり込むことはないですが、瞑想初心者にはとても魅力的な体験ですから、「ハマってはダメだよ」と指導されてはいても、ついついハマり込んでしまうことはありますね。79
これらの体験について
プラユキ たとえ神秘的な体験をしたとしても、それも怒りや悲しみなどと同じ心の現象。(中略)その生まれては消えていくさまを、あるがままに見つめていくことが大事です。81
苦、無常、無我と、瞑想との関係について
プラユキ 雑念が浮かんでこずに、心に静けさがあるときだけが「瞑想ができている」状態である、と理解されていますよね。しかしそうではありません。ひとつの思考が浮かび、パッと気づいて、それを受けとめ、観察し、また手の動きや呼吸に戻ってくる。その一連のプロセスから無常や無我といった洞察を得ることがブッダの瞑想の真骨頂なわけです。86
プラユキのすべての主張の頂点がここ、と言ってもよい重要な部分だ。だから音が聞こえたら「音、音、音」とラベリングする瞑想法について
プラユキ 「音」「妄想」「雑念」などという言い方で一緒くたにして、切り捨ててしまうのはお勧めできません。(中略)それ自体も法の一部です。86
これも100%賛成だ。
篠浦 脳科学的にはまだ証明されてないのですが、僕が想像するに「集中する」というのは能動的な機能で、おそらく脳の(前略)のほう、特に右の前頭葉を使っている。(中略)脳全体を使っているわけではないんです。
それに対して「観察する」のは、おそらく頭頂葉系のプレクネウスという、一番線維が集まっているところを使っている。(中略)だから、一番上から情報を俯瞰できる。プレクネウスはきわめて受動的なんです。87
高年齢者にとり注目すべき情報は
篠浦 プレクネウスというのはアルツハイマーが始まる場所でもあるんですよ。(中略)おそらくね、現実が嫌になってしまうんですよ。受動をシャットアウトしていく。それで脳機能のうちのプレクネウスから弱らせていくんです、おそらくですけどね。88
三つの瞑想法はサマタとヴィパッサナが混ざるので、二つに分けないことは大賛成と思ったところ
プラユキ ブッダの教えた瞑想法のひとつに「三十二身分観想」と呼ばれ、当時の解剖学に基いて身体を髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、(中略)小便と三十二の要素に分解し、それぞれを繰り返し観察していく方法があります。その際、身体の持つ不浄性に注目し(中略)そういった特定の意図で行じられる
とき、それはサマタ系の瞑想とみなされます。それに対し(中略)解釈を交えずに、あるがままの心身観察の一環としてこの瞑想が行じられる場合は「ヴィパッサナ瞑想」となります。93
この部分だけ意見が異なる。三十二の要素で観察すると、意図が入りサマタにならないだらうか。
プラユキ サマタ系の瞑想は、意図やコントロールが入るのが特徴です。集中という行為自体、(中略)能動的な行為となりますね。94
これは賛成だ。
篠浦 古い皮質の脳、動物脳というのは外しか見てないわけですよ。おいしいものがないか、いい女がいないかとか、外とくっつきやすい海路なんですね。
(中略)一番線維が集まっているのはプレクネウス、これが最新の知見です。ここを主役にすれば、変な回路ができないだろうと思うんです。要するに、あるがままに見るというのは、プレクネウスが現実を観察しているわけです。100
アルツハイマーについては
篠浦 瞑想でそこを使うようにすれば血流が増えるから、アルツハイマーになる可能性が相当減るんじゃないかと僕は思う。101
次に
篠浦 サマタとヴィパッサナー、つまり集中系の瞑想と観察系の瞑想というのは、向き不向きがあるんですか?
プラユキ もともと集中力のない人に対して「ずっと集中していなさい」というのは、なかなか酷だと思うんですよね。102
ここは一瞬、逆ではないかと思った。集中力のない人には集中系が必要、観察の欠けた人に観察系が必要だ。これについて
プラユキ 生じてきた思考を(中略)悪者扱いするのも逆効果。思考が生じてくるのは自然なことだし、悪いことでもありません。103
なるほど納得した。観察系だと
プラユキ チャルーンサティだったらからだの動き、アーナパーナサティだったら呼吸の動きに基本的に気づいていくわけですが、続けていると、自然と心の動きや法の理解に進んでいくようになっています。103
先ほど三十二身分観想で起きた疑問も、半分は解消した。
プラユキ 集中系の瞑想をして集中力がそれなりにつき(中略)これまで何ともなかった音に嫌悪を感じるようになることがくあります。(中略)修行の退行です。
篠浦 人間って、意外と回路を作ることが快感なんでしょうね。(中略)集中系の瞑想って回路を作りやすいと思うんです。だから、あまり良くない気がします。でも、プラユキさんの瞑想は(以下略)104
ここが、曹洞宗や臨済宗に限界が発生しやすい原因だ。大乗の仏道や一神教、ヒンドゥー教道教神道の祈る行為を瞑想法とした場合の、限界が発生しやすい原因だ。
篠浦 観察系の瞑想をすれば、むしろ集中するわけですよね。105
これは慧眼だ。
プラユキ 人間関係が伴なって、臨機応変に対応しなければならないような仕事では、ただ集中力があるだけでは通用しないでしょうね。107
タイやミャンマーで、近年観察系瞑想が流行する理由だ。
三月十二日(木)第二部第二章
篠浦 智慧と慈悲は互いに無関係ではなく、連動しながら同時的に育まれていくものだとわかってきました。(中略)こうした生きた智慧を授けてくれたのは他でもない、実は私の中の怒りや欲といった感情であり(以下略)112
上座の仏道に対し、慈悲がなく自分の修行だけすると云ふ悪質な悪口がある。脳科学からもこれが誤りだと判る。
篠浦 「一次元」の脳の使い方。刺激を極力入れず、動物脳を静めて、人間の脳を活性化させていくんですね。瞑想にあてはめれば僕が普段やっているらしい集中系の瞑想と言えるかも知れないですね。刺激をシャットアウトするだけで、人間脳と動物脳の間にある、脳の司令塔である自我の血流が増えて脳が活性化していく(以下略)113
以上が一次元。
篠浦 二次元というのは、側頭葉をどう使うかという問題です。脳の回路には、側頭葉のような下方を通る腹側系と、頭頂葉のような上方を通る背側系があるのですが、腹側系は、視覚と聴覚の情報を伝達する部位中基本的に受け身の情報ですね。(中略)一方、背側系というのは、手足を動かす部位です。115
ここで注意すべきは
篠浦 側頭葉は宗教的な体験と深く結びついていることがわかっています。たとえば、右側頭葉がてんかんを起こすと、すごく神々しい気分になって突然十字を切ったり、光る存在が見えたりという体験をする人がいます。マホメットやキリストなどの聖人も、側頭葉てんかんがあったのではないかと言われています。115
僧Xの他宗攻撃に対しこれまで飢饉疫病他国侵逼など異常事態への対応と考へ、佐渡以降については異常体験としてきた。しかしこれらについて側頭葉が関係するのか、今後の研究が待たれる。
篠浦 側頭葉に何かしらの疾患や刺激があって宗教的体験をしたという報告は多く見られます。集中系の瞑想も、右の側頭葉を刺激する傾向はあるのではないかと思いましたね。116
以上が二次元。
篠浦 三次元の脳は(中略)脳のてっぺんにありますが、機能としても(中略)脳全体を俯瞰して統率する役割があります。まさに人間ならではの脳です。(中略)動物脳の影響をほとんど受けないですむのですね。これが三番目の瞑想がうつなどに効果的な理由かもしれません。手や足の動きを意識するということは、とりもなおさず三次元の脳を意識的に刺激して動物脳から離れることと同じですから。
動物脳(中略)から離れるために、一番高度だけれど確実なやり方は、その回路とはまったく関係のない新しい回路を作ってしまうことなんですね。117
これに対し
プラユキ ほー、なるほど。ブッダが菩提樹の下で瞑想に取り組み(中略)「輪廻からの解脱」と称していますが、実はそれは、苦悩を生み出す心の「縁起」すなわち苦しみを形成する心の循環回路に気づき、そこから脱しえた、ということなのです。117
ここだけ読むと、輪廻からの解脱とは無関係の脱し方だと批判する人もゐることだらう。しかし現世だけではなく輪廻まで思考範囲を広げることは、現世解脱の手段だ。仏道は他の宗教に対し、ここまで譲歩することはできる。解脱後は無記なのだから。
篠浦 一次元、二次元、三次元という形で脳は発達してきたわけですから、瞑想の手法としてもその三つをやっていくのは良いと思うのですが、やはり二次元は快感、そして「宗教的な感覚」ともっとも結びつきやすいところがありますから要注意ですね。
プラユキ 先生のおっしゃる一次元、二次元、三次元という脳の整理は、仏教の三学「戒」「定」「慧」という修行階梯にも重なってくる気がします。三学でも一番危ういのは、二番目(中略)なんです。ここで心地よさにふけったりハマり込むと、その先の智慧も開けてこないとされています。118
この話は経典学習会でも習ったから、経典の註釈文書に出てくるのだらう。
1次元から3次元の右脳左脳の話を独立、固定思想(二百四十一の三)へ
プラユキ (慈愛が)油断すると、苦しみの要因となる「愛執」や「愛着」に変わっていきかねないので、注意が必要です。
篠浦 そこなんですよ。僕が宗教について、四次元までいかないで途中で止まったら危ないと思うのは。(中略)愛に行き着かないでしょう。しかも左脳二次元の原理主義と右脳三次元の拡張主義が結びついて、いろいろなことを起こしている。127
私はときどき、文化の下に宗教がある、と云ふことがある。文化の中に、でもよい。これは、タイやミャンマーで上座の仏道が熱心なことについて、タイ文化やミャンマー文化の一部と捉へたものだが、東洋と西洋を問はず人類全体の持つ「永続」「公序良俗」の重要な一部と云ふ意味でもある。
篠浦 右脳と左脳、やっぱりどちらかに偏っている人が多いんですよね。特に日本人は右脳二次元が多い。(中略)そして面白いのは、同じ右脳に傾いている方でも、ストレス耐性が違うということでる。ストレス耐性の違いは、やっぱり人間脳の違いなんです。(中略)ストレス耐性があるということは、動物脳をコントロールする人間脳が成熟していること。幸せに生きる、苦しみのない生き方をする脳の使い方を考えたとき、ストレス耐性が一番大事だと考えています。129
これは脳を専門とする医師の貴重な発言だ。
篠浦 仏教で苦というのはかなりポジティブな意味を持っていますよね。ホルミシスもそうなんです。138
ホルミシスとは、宇宙飛行士が地上の何百倍もの放射線を浴びて、地上に戻ったあと逆に元気になる現象だ。
篠浦 脳というのは、結局快か不快かが大きな判断基準だと僕は考えています。(中略)瞑想も(中略)脳にとって快感なのでしょうね。145
鎌倉仏道で、拝めば極楽浄土に行ったりご利益があるとするのは、確かに快感だ。しかし大宇宙時代に、浄土が無いことに気付いたり、ご利益が無いことに気付いたときに、どうなるか。
プラユキ ブッダは瞑想修行の中で生じてくる光体験や歓喜体験など(中略)十種の特殊な体験についても、「ヴィパッサヌーッパキレー(瞑想隋煩悩)」と称し、「とらわれてはならない」と言っています。(中略)それらをあるがままに洞察し尽くしたところから得る智慧こそが重要であって、体験それ自体が大事ということではないんですね。163
これは明察だ。
プラユキ 「受容」は(中略)生じてくる現象をあるがままにそっくりそのまま、心のスペースを開いて包容してあげることです。165
これも明察だ。
プラユキ 定は、一般的に「集中力」と訳されたり、解釈されますが、私自身は(中略)「受容力」と解釈しています。ルアンポー・ティアン師も「集中しすぎるな」とよく言っていました173
ルアンポーの貴重な指導だ。
プラユキ 人間関係の問題に取り組む場合、基本的にはみんな心の底ではともに幸せになりたいと願っている、ということに信頼を置くことが大事かなと思います。176
信頼を置くにしても、無宗教ではできない。一方で、国際化が進み他宗教の人とも接するし、資本主義と云ふ唯物論も現れた。だから私は「永続」「公序良俗」と呼ぶ。
篠浦 「前向きに頑張る」とか「自分を信じる」って、ちょっとずれた意味で使われてますよね。とにかく頑張れば絶対に何とかなるっていうのが強すぎて(中略)そういう狩猟民族のような結果しか考えない方法ではなくて、われわれはもともと農耕民族なのだから(以下略)177
日本では江戸時代の末期以降、西洋の猿真似のために、混乱が今でも続く。どっちが優れてゐると云ふのではない。アジアは西洋の猿真似をしてはいけない。
篠浦 自分に否定的になりやすいのは、やはり動物脳の影響ですね。動物脳の強い組織にいると、失敗すると減点されるので、挑戦しなくなる。中閉鎖的な組織は、ボスの保身のために必ず動物的な組織になっていますので、まずそういう組織自体が瞑想をする。中仕事を完全に中断して、肩書や過去の感情をはずして、中お互いをどう生かすかを温泉にでもつかりながら虚心坦懐に話し合うことです。そうでもしないと、動物脳主体の組織は暴走し、滅びるまで目が覚めないという例は、過去の企業や組織の枚挙にいとまがないと私は感じています。182
これも同感だ。
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