千三百九十三 魚川裕司訳、ウ・ジョーチカ「ゆるす」「自由への旅」
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十一月三十日(土)ゆるす1
藤田一照さんと魚川裕司さんの対談「感じて、ゆるす仏教」の「ゆるす」とは何だらうと、魚川裕司さん訳のウ・ジョーチカ「ゆるす」を次に読んだ。ところが「感じて、ゆるす仏教」とは関係がなかった。1997年にオーストラリアで行はれた二つの法話「ネガティブなことへの対処法」「ゆるす」の一つが書籍の題名になった。英語で行はれ、しかも西洋人向けなので、上座または大乗に馴染みのある人たちから見ると不十分に感じるところがある。
前にもこの書籍は一回読んだことがある。しかし経典または注釈書を引用するものではなかったので、記事にはしなかった。今回は「ゆるす」の意味を確認するために再読した。この本では他人を許す意味で使用してゐる。
「感じて、ゆるす」では、感覚を優先させることを許可する、と採ることも可能だが、それではなかった。

十二月一日(日)ゆるす2
人生からネガティブを減らし、ポジティブにすべきだ。この本は、四諦の苦諦について
そこで留まったのなら、ブッダは実際に悲観的(英語略)でネガティブな人であったのだと、本当に私たちは言うことができるでしょう。しかし、彼はそこで留まらなかった。(ここに四諦の内容)。これはポジティブなことです。
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人生が苦だと云へば、現代のやうに化石燃料大量消費社会では、奇妙に感じるかも知れない。人類の子孫や野生生物にとっては、地球温暖化と自然環境破壊とプラスチック問題で苦だが。苦を子孫の世代に先送りし、バカ騒ぎをしてゐると云ふのが正解だ。
現代では、人生は楽だがこれを苦と逆転させて考へることを苦諦とするのがよい。或いはインドでも南方は暑い。暑いと楽天的になる。南伝の仏道には、この解釈があるから上座が今でも続くのだらう。

十二月七日(土)自由への旅
「自由への旅」の原文は「A map of the Journy」だから「この旅の地図」が訳だ。意訳で「涅槃への旅の全体図」でもいい。魚川さんの訳だと「自由」が余分だ。日本人の考へる「自由」は勝手気ままのことだし、西洋人が非西洋地域に優位を保つために「自由」を用ゐることもある。だから「自由への旅」は極めて悪い訳だ。
アメリカで不満について話した時に、私は「足ることを知っていれば、生活費を半分にすることができますよ。(以下略)」と言いました。するとある人が、「半分しか使わなかったら、それは経済に大きな打撃を与えることになる。(以下略)」と言ったのでする。
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ウ・ジョーチカサヤドーの云ふことは正しい。安心した。と同時に「経済に大きな打撃を与える」なんてことを云ふ人が多く、さういふ人たちに人気があるのかなあと心配にもなる。
心を安らかで平静で、リラックスした状態に保つことに
馴染んでくると、何であれ不健全な思考が
心に入った瞬間に
あなたはその違いがわかるでしょう。
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これは賛成だ。我々信徒はこれを目指すべきだ。そのうちのごく一部の人は、輪廻することに意義があるかと気付く。日本ではさう云ふ人が出家すべきだ。ミャンマーでは、文化の一部として一時出家が容易だから、これはよい習慣で、誰もが一時出家しても問題ない。
考えることは、ウィパッサナーではありません。サマタではあり得るかも知れませんけどね。
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これについては、賛成とも反対とも云へない。私は比丘の指導されたことに反対はしない。ウ・ジョーチカサヤドーの場合は、西洋人からの評判が高い。その差について反対することはあるのかも知れない。
この部分について、私自身はサマタ瞑想のときも考へることはしない。だから異論はないはずだがその一方で、ラベリングはラベリングをしようと考へてゐるのではないか。四念処の心や法は考へではないのか。結論としてマハーシに特化した意見だと思ふ。
歩く瞑想を修することで得られるサマーディは、座っている間に得られるサマーディよりもずっと強いと、ブッダは言っています。
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これは経典の文脈を見ないと何とも云へないが、座る、歩く、立つのどれがよいかはそのときの状態によると思ふ。普通は座るときが一番強いと、多くの人が云ふ。(終)

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