千三百六十六(その二) 自宅周辺の話題(自転車)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
九月二十八日(土)
歩行と比べて、自転車のいいところは遠回りが苦にならない。目的のない走行を楽しむこともできる。
家から国道を走らず東京方面に向かふには、蕨高校の横から正門通りを走る。昔からこの経路が好きだった。早速走ってみたが、まづ横にあったペリカン石鹸の工場が無くなった。火事になり工場は移転したのだが、かつては国道を走っても石鹸の匂ひがした。
正門通りは寂れた。商店がほとんどない。飲み屋ばかりだ。あと昔は、電器屋、屋根屋、畳屋など職人系の店が、商店には付きものだったが、ほとんど無くなった。無理もない。昭和五十年代との比較である。
国道を走らず戸田橋まで行く道を昭和58年頃に開発した。今走ろうとしても途中で判らなくなった。そして引き返した。

十月六日(日)
東北本線に沿ひ蕨方向に走った。かつて歩行者専用に近い陸橋があり、道路とは階段が南向き、坂が北向きにあった。自転車や稀にオートバイが走るものの、静かな雰囲気だった。陸橋は鉄製で、日本車両と銘板があった。陸橋の上からは、住宅公団川口芝園団地がすぐ前に見えた。日本車両の蕨工場の跡地だ。団地を建設するときは蕨駅から引き込み線を再び敷いて、鉄骨やコンクリート車が跡地に入線した。そして団地ができた。かなり経って外環道路が南側にできて、陸橋は外環道路歩道に吸収された。外環道路は半透明プラスチック(元々は透明だったが劣化した)で覆はれるので、見えにくくなった。 今回は外環道路を超え、その先の車道の陸橋手前で引き返した。帰りは西側の知らない道を走った。

今日は、二回目の旅行もした。自転車の醍醐味の一つに、知らない道を走ることがある。歩行だと、そんな無駄はしたくない。南区四ツ谷を走った。大糸線(松本から糸魚川)に信濃四谷と云ふ駅があった。今から四十五年前も自転車で走って、同じことを思った。信濃四谷はその五年位前に白馬駅に改名されたのだが。
南区四谷の地域集会所(兼神社)で、田島の獅子舞ひを演じてゐた。奥は寺なので明治維新で神仏分離したのだらう。
インターネットで調べると、市のホームページに、市指定無形民俗文化財、昭和33年3月31日指定、氷川社(桜区田島4-12-1)で3月15日7月15日10月6日に近い日曜日に奉納、概要は江戸時代前期、厄除け、悪魔祓いとして奉納されたのが始まりで、「弓掛」と呼ばれる弓を飛び越へる場面が見所の一つとある。
10月は、四谷の稲荷社(南区)でも舞を披露するさうだ。

十月十日(木)
近くの農家だった旧家の新築場所が急変した。ここに移転するのかと思ったら六つに区切った。各区画に二本づつ杭を打ったから、新築して賃貸か。
近くの駐車場も急変した。北半分が封鎖された。ここも工事に入るみたいだ。飛行機が墜落した現場の社の敷地で木が切られた。移転かこのまま整備か。

十月十二日(土)
ペリカン石鹸跡を走ったときは気が付かなかったが、都立特別支援学校でコンピュータを教へ始めたころに、自転車でここを走ったことを思ひ出した。
結婚後に自転車は実家に置いたままだったので、ずいぶん後まで帰省したときに乗ることができた。戸田橋を越えて都内まで行ったことも思ひ出した。(終)

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