千三百五十三(その三) 石井米雄「世界の宗教8 戒律の救い 小乗仏教」
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
九月一日(日)
昭和四十四年に出版された「世界の宗教8 戒律の救い 小乗仏教」は、近年上座を誹謗する粗悪な本が多いなかでは、比較的良くかかれたものだ。とは云へ、変な部分が幾つもあるので、その都度指摘したい。
世界では小乗仏教の蔑称は使はないことになったが、日本は世界と隔離してゐるため、昭和四十四年はこの名称を用ゐることはやむを得ない。
モーン・イナラ、タイ・プラスート、パマー・アピタムと云ふタイの諺を引用し
モーン族は、とりわけ、ウィナラ、つまり、戒律を守ることにすぐれている。タイ人は、ブッダの教説(プラスート=経)に詳しく、隣国のパマー、すなわちビルマでは、(中略)アピタム(アビダルマ=論)の研究がさかんである。
(28)
私は、タイ戒律、ミャンマー瞑想、スリランカ経の研究と聞いたが、おそらくタイの諺が正しかったのだらう。タマユット派について
のちにタイ国王となったひとりの王族が、まだ僧侶として修行中に、モーン僧の深い薫陶を受け、当時乱れていた持戒の強化を叫んで行なわれた宗教改革の運動の結果誕生した一派である。
(28)
それがモーン・イナラださうだ。
「タイ・プラスート」とは(中略)まさかタイ人が経典の暗誦にたけている、という自慢ではあるまい。この一句だけは、無理な語呂合わせのように思われてならない。
(29)
昔は経典を暗記し後世に伝へることは比丘の役割だったから、それかも知れない。しかしスリランカに伝はったとき、文字になった。経典の解釈かも知れない。論蔵はビルマ、経蔵はタイかも知れない。書籍を執筆するからには「思われてならない」ではなく、きちんと調べるべきだ。
みずからの努力と能力とによって、最高の知恵を得たアラハンには、人間らしい温かみが欠落している。
(50)
これは変だ。慈悲に溢れるのがアラカンだ。慈悲喜捨と云ふ言葉がある。慈は友情、悲は困った人への協力、喜は他人が喜んだとき嫉妬せずいっしょに喜べる心、捨は不平等な心を捨てることだ。慈悲喜捨はすべての仏道信仰者が努力すべきものだから、アラカンが他の模範となる状態なことは当然だ。
大乗仏教運動がおこされたとき(中略)おのれひとり潔しとして、他をかえりみない正統派のエゴイチックな態度は(以下略)
(51)
これは上座の仏道に対するまったく正反対な中傷だ。石井さんは京都大学教授だが、タイ語とタイ国史が専門なので、この程度の低級なことしか云へないのかと驚く。
上座の仏道は、誰でも出家(比丘、修道女の違ひはあるが)することが可能だし、誰でも比丘に寄進することができ、これは信者に幸福をもたらすと誰もが信じてゐる。比丘は長いこと地域で一番の知識人だったから人生相談をする人も多いし、今では信者への瞑想指導も行はれる。
私が見たところ、上座の仏道ほどすべての人を幸福にする宗教は少ない。

九月六日(金)
アーナンダは答えた。「(前略)婆羅門よ、われらは依るべき処があるのである。すなわち、法こそこれらの所依である。」
「尊者よ、そのいうところのいみは、どういうことであろうか。」
「婆羅門よ、かの世尊は、比丘たちのために戒をとかせたまうた。布薩の日にあたって、近在にある私どもは、すべて一処に集まり、その所業を問い合い、(中略)。これは聖なる人があって私どもを善処せしめるのではない。法がわれらをして善処せしめるのである。」
(77)
戒律を守り、満月と新月の日に布薩を行ふことは、比丘が神通を持つために必要なことだ。
上座部仏教の教理の根底には、自己の救済を可能にするものは自己以外の何者でもない、という思想があった。(119)
これは完全に誤りだ。アラハンになるには自己の修行以外にない。しかし救済は、サンガを支へたり、近年では信者も瞑想をすることで可能だ。だから
サンガの関心もまた、ひたすら成員である比丘に向けられる。そのかぎりにおいて、サンガは、在家者とはなんらのかかわりをもたないのである。
(120)
も完全に誤りだ。
上座部仏教のビクは、布教に不熱心であるという非難を、しばしば耳にする。(中略)タイの仏教大学では、英語で布教する能力をそなえたビクの養成まで、組織的に行われているのである。(中略)しかし、ビクの出家の目的と、そのビクによって構成されるサンガの性格からすれば、わずかとはいえ、布教への努力が存在することのほうが、むしろ不思議なくらいである。
(121)
私は今までに、上座の比丘が布教に不熱心だと聞いたことは一回もない。タイの社会には比丘に寄進する伝統がある。このままの姿こそ布教が完成した状態だ。
一八八六年、ビルマを併合したイギリスは、サンガの権威を全面的に否定する政策を採用した。
(127)
ミャンマー人の独立への熱意と、独立後にサンガが復活した努力は、いくら称賛しても称賛し過ぎることはない。
今日の東南アジアの諸サンガが、驚くばかりに均質な経典を保持しており、大乗仏教にみられるような、多彩な教理の展開がみられないというのも(以下略)
(129)
日本以外では、大乗の僧の多くは上座の比丘戒を受ける。その事実が判れば、大乗の多彩な教理も許容範囲だ。
閻魔大王
(136)
タイの農村の民話に閻魔大王が登場する。大乗の影響か。素朴な民話は信仰に役立つ。
タイの田舎の寺にゆくと、本堂の壁などに生々しい地獄の図が描かれているのよくぶつかる。
(145)
これも同じだ。
救済の主役を演ずるのは、戒律ではない。瞑想ではない。(中略)五戒がある。八戒がある。折りにふれて、心地よい読経のひびきを耳にしながら、本堂のなかで半跏の座禅に陶酔する老人の姿もある。しかし(中略)「タンブン」という主役のかたわらにあって、はじめてその存在の意義が認められるにすぎないのである。
(150)
これは事実だ。昭和四十四年に出版された書籍に、坐禅をする老人の姿が書かれると云ふことは、戦前から信徒の瞑想はあったのだらう。
ワットは、農民の生活の中心だ。かつては、それが学校であり、病院であり、簡易法廷であり、集会場であり、そして旅人の安全な宿舎でもあった。現在でも、農村についてみるかぎり、ワットのもつ重要性は決して現象してはいない。ただその機能に若干の変化がみられるだけである。
(154)
これは今でも同じだ。だからサンガは自分たちの修行のみとする石井さんの説は誤りだ。
托鉢の行を、俗に「プロート・サット」つまり「衆生を喜ばす行」とよぶが、この言葉は、托鉢という行為が在家者に「タンブン」の機会を与えるために、僧のほうからわざわざ出向いてゆくのであって、物乞いをしているのではないという思想を端的に表現していて興味深い。
(159)
この辺りはタイ語に堪能な石井さんならではの筆だ。
厄よけの霊糸<サーイシン>と、まえにふれたブン転送の儀式<クルワット・ナーム>(中略)。ここまでくると(中略)まじない迷信のたぐいとなんら変わるところがなくなってしまう。「三帰依」も「五戒」も、それを唱えること自体に神秘的な力を期待されているのであって(以下略)
(169)
これは石井さんが間違ってゐる。霊糸、三帰依、五戒。すべて儀式として行なふことが正しい。私も、腕に糸を巻かれたら、いつまでもそのままにしておく。切ってはいけないからだ。尤もあまりにきたなくなったときは、引っ張って切れたことにしてしまふことはある。石井さんの云ふ霊糸は、部屋中に広げる糸のことだが。
上座部仏教は(中略)ふたつの宗教の複合によって成立する。(中略)なにものにも心動かされることのない、冷徹な完知の人アラカン。(中略)エゴイズムをその本質とする出家エリートたちは(以下略)
(172)
これは許し難い暴言だ。出家者たちが、自分たちの幸福だけを祈ったら、それは出家エリートだ。しかしさうではなく、我の消滅を目指す。その修行に賛同し、しかし自分たちは出来ないから多くの人がお布施を行ふ。

九月七日(土)
西洋人が世界各地を植民地にしながらタイに到達した。
シャムという国が、とるにたらぬ小国であり、その国民であるおのれ自身らは(中略)猿よりはすこしばかりましな程度の人間にすぎないことを悟りさえすれば、まだ希望がもてるというものだ。
(182)
「猿よりはすこしばかりまし」はひどい暴言だ。一方で、西洋人はサルがやらない地球破壊を行ふ。「サルよりはるかに劣る」のが西洋野蛮人だ。
隊のタンマユット派について
『三界経』も、俗信の書として捨てられた。人びとの愛好したジャータカ(ブッダの本生物語)は、神話として新しく位置づけられた。
(186)
また
モンクット親王はいう。「まことのビクは、自己自身の救済を確信するだけであっては不十分である。すべからくその知識と権威とを、同胞の救いのために用いることを、みずからの義務として課すべきである」
(188)
これは西洋人の到来への緊急対策だ。石井さんの間違った主張とはまったく異なる。
西洋人への対策として、タイが絶対君主制になったことについて
「絶対」とは名のみで、中央の威勢は、わずかに首都とその近辺の地方に及んでいたにすぎなかったのであった。
(196)
やがて
一九〇二年のサンガ統治法は、一九二四年までには全国にその適用範囲がひろげられ
(196)
出家者は本籍の寺院をもたなければならなくなった。
一九三二年六月、人民党のクーデターによって(中略)立憲君主国家として再出発した。
(197)
中央の威勢と、サンガ統治法の広がりをほぼ同一と考へると、地方に威勢が及んだ八年後のことだった。ここでサンガ統治組織に対し民主主義を主張したのは
サンガの側であった。これに対する政府側の反応はきわめて遅かったが、ようやく一九四一年にいたって(中略)国王に対応する地位としてプラカンサラートを考え、その下に、三権分立の原理にもとづき(以下略)
(197)
これが1941年のサンガ法だ。マハーニカイとタンマユットがある以上、一つにまとめるのは無理だ。その前に、サンガの組織はサンガに任せればよい。国が強制するから問題が起きる。
一九五八年クーデターによって政権を獲得したサリットは、サンガの三権分立が機能しないことに、一九六三年新サンガ法を発効させた。これはプラサンカラートが大長老会議を通じて地方組織を統治することになった。ここでもプラサンカラートを、どちらの派が出すかで、もめることになる。

九月八日(日)
この書籍は、タイ語の専門家が書いただけあって、最近多くなった上座を批判する書籍とは大きく異なる。とは云へ、上座の専門家はおろか信仰さへしてゐない人が書いたから、誤りも多い。
上座の仏道を自力と書く書籍が日本に多いが、その源流は昭和四十四(1969)年発行の、この書にあるのではないか。上座の仏道は、比丘が戒を守ることで神通を得る。比丘に供養することで在家はご利益がある。比丘は釈尊の教へに従って修行をすれば四向四果のうちの、良ければ阿羅漢果、悪くても一来果には行くと思ふ。つまり他力だ。
他とは法であり、阿弥陀仏や久遠実成の仏ではないと駄目だと云ふのなら、自力で法の他力にたどり着く自力だ。(終)

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