千三百五十三(その二) 池田正隆「ダンマ・ニーティ」、中村元ほか「アジア仏教史インド編I古代インドの宗教」、ウウエープッラ・戸田忠「アビダンマッタサンガハ」
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
八月二十八日(水)ダンマ・ニーティ(さとりへの導き)
2017年出版の「ダンマ・ニーティ」は
パーリ語教訓詩
「ダンマ・ニーティ(さとりへの導き)」

と表紙に書かれてゐる。「はじめに」を読むと
パーリ語はブッダが、かつて布教なさった東インドのマガダ地方を故地とする民衆語(プラークリット)とみなされる(「マガダ語」と呼ばれたこともある)言語で、その後、原始仏教は西インドを経由して紀元前三世紀頃、海路スリランカに将来され(以下略)

これは良心的な文章だ。釈尊の話したのは北東インドのマダガ語或いは準マダガ語で、パーリ語は西インドの言葉と云ふのが中村さんの説だ。一方で上座部には釈尊の話した言葉と云ふ伝承があるから、どちらも正しいとするためには、釈尊の話した言葉が西インドで多少の訛を受けたのがパーリ語と私は考へてきた。
池田正隆さんはパーリ語をマガダの言葉としたから、更に正しい。俗語と云はず民衆語と呼んだことも慧眼だ。池田さんは、大谷大学文学部(仏教学)を1957年に卒業し同年ビルマ政府佛教教会招聘留学生として渡緬。かう云ふ人こそ留学すべきだし、仏道の本を執筆すべきだ。
教訓詩は、ダンマパダやジャータカの本文と、我々には区別できないくらい同じだ。ミャンマー人のなかには、この詩に従って家を建てた人もゐるさうなので、広く知られてゐるのだらう。パーリ語で書かれ、この本はウーヴィジャーナンダサヤドーが監修された。テーラガーダーの、後世編(三蔵が確定したあとの作)と云ふべきものだらう。

八月二十九日(木)古代インドの宗教
昭和48年出版のアジア仏教史 インド編I古代インドの宗教は、仏道に関係する部分が少なく、関係しない部分も読まうとする最初の熱意はすぐ消失した。「第五章シャモン」は山口恵照さんの執筆で、苦行の前に師事した二人について
留意すべきは、釈尊に教えを授けた師が、禅定にもとづいて、師なくして一切にうち勝ったものである、といわれている点である。(中略)釈尊における無師独悟の行き方が、釈尊の先師においてもみとめられることになる。

これだけに留まった。

八月三十日(金)アビダンマッタサンガハの「はしがき」
昭和五十四年のはしがき、2013年の新装第1刷のアビダンマッタサンガハは、水野弘元さん監修、ウウエープッラサヤドーと戸田忠さんが訳注を担当した。
「はしがき」を書かれたウウエープッラサヤドーと、第一章が始まる前に置かれた「アビダンマッタサンガハ」を書かれた水野弘元さんには、微妙な違ひがある。私は水野弘元さんと同意見だ。ウウエープッラサヤドーは
人は、執着があるかぎり悟りに到達することができない。その終着を捨断するには、名色識別知(パーリ語略)が最も肝要である。釋尊は、論蔵に説かれている内容によってそれに対したのである。

日本人は、西洋式教育を受けたから、古文書や文献の専門家から、論蔵はあとから作られたものだと云はれると、それを信じる。ウウエープッラサヤドーは1916年ミャンマーのパコックに生まれる。出家した年は不明だが、1948年のミャンマー独立時には三十二歳だから、仮に出家前にイギリスの植民地政府の下で学校教育を受けたとしても、反撥のほうが強かったはずだ。だからウウエープッラサヤドーは、僧院で教育を受けたと推定してよい。
だから、論蔵は釈尊が説いたと書かれた。
ビルマにおいては出家して比丘になったとき、まず最初に学ぶのがカッチャーヤナの文法書と、このアビダンマッタサンガハであり、仏教の諸學所として必須の書とされている。

前述の事情なら、これは理解できる。アビダンマッタサンガハを読んでも、ウウエープッラサヤドーと戸田忠さんの本は判り易い。
1954年(中略)ラングーンで第6回仏典結集が開かれたが、そのとき日本から約300名の僧が参集した。このとき日本側から南方上座部の仏教を是非日本にも広めてほしいとの要請があり、ビルマ政府仏教会はそれを受けて6人のビルマの長老僧を派遣した。私はその伝道師の一人として昭和32年8月8日に2本に到着し、それ以来22年の才月が流れた。その間ビルマの上座部仏教の伝統を守って、毎日参詣者の教化に務めてきた。

ウウエープッラサヤドーなどの長年の努力の結果、上座の仏道は日本にも広がった。ところが中村元さんの晩年がいい例だが、昭和60年辺りから上座の悪口を云ふ人が現れ出した。日本側が要請しておきながら、少し広まると悪口を云ひ出す。日本側の身勝手には驚くが、昭和60年は、創価学会の折伏が終って10数年、ベトナム戦争が終って10年。戦前に成人を迎へた人がだんだん少なくなった。
欧米が優れ、日本はそれに遅れ、他のアジアは大きく遅れると云ふ奇妙な主張が出て来た。1916年生まれのウウエープッラサヤドーに、戦前生まれの日本人と共通点を見つけたのは望外の喜びだ。

八月三十一日(土)アビダンマッタサンガハの「解説」
「アビダンマッタサンガハの解説」は水野弘元さんが書かれた。まづ
ダンマとしての仏の説法である経典を注釈説明し、経典所説の教理を整理組織し体系化する等の学問研究をアビダンマと云ったその萌芽は仏の在世中からあったらしく、原始仏典の中にはアビダンマの語がしばしば現れている。

論蔵がアビダンマだと思ってゐたが、アビダンマを研究した文書が論蔵だと云ふことが判った。
アビダンマの研究では、例えば仏教の教理的な述語や用語を定義説明する場合に、それが高い立場から説かれたか通俗的意味に説かれたかを考慮することなく(中略)機械的形式的に型にはまった同一の定義説明を施したのである。(中略)立体的な仏の説法はアビダンマにおいて平面的一面的なものとなり、形式的機械的なものとなった。

私がアビダンマを嫌ひな理由は、ここにあった。
仏教が本来目的とした社会人生は「いかにあるか」「いかにあるべきか」という(中略)実際問題をはなれて、「何があるか」「何であるか」というように諸法そのものを存在論的に高級するようになったからである。

これも同じだ。
考察や説明は科学的とも見られるものであるが、それはもちろん経験科学ではなく、多分に思弁的なものを含んでいる。とにかく南方仏教は科学的に近い物であるのに対して、北方仏教はむしろ哲学的であるといえる。

これは鋭い指摘だ。尤も北方仏教に説一切有部も含まれる前提で、もし北方仏教が大乗の意味なら、これは当然のことだ。水野さんには北方仏教の説一切有部の表現があるから、前者で間違ひない。

九月一日(日)アビダンマッタサンガハへの私論
西洋科学の流入に寄り、タイでは上座の仏道に入り込んだ迷信を除く運動が行はれた。同じやうに、科学の存在が明らかになった後は、アビダンマのやうな科学に近いものも除く必要があると思ふ。
一つには、アビダンマの考察が精密であっても、科学には劣るし、例へ科学に優れるとしても科学万能の世の中では俄かに信用することができない。
二つには、迷信を除くことにより全体の均衡が崩れるため、アビダンマも一部を削って均衡を取る必要がある。(終)

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