千三百三十八 1.辻正信の手記、2.戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
七月二十六日(金)
二つの記事を紹介したい。まづは週刊ポスト2019年8月2日号に載った辻正信の手記だ。Newsポストセブンによると
辻の未発表手記が、ノモンハン事件から80年の節目に公開された。(中略)「父からは死後に開封するように言われていましたが、昨年、没後50年を迎えました。(以下略)」
で始まる。
〈国を挙げて満州の野に強露を破った歴史がなかったら、今頃は支那(中国のこと)の北半はもちろん、朝鮮もあるいは日本もソ連の領土になり、支那は列強に分割されていることは明断するを憚らない〉
ノモンハン事件で日本軍は大敗したというのが通説だが、辻はソ連軍を打ち破ったと認識しているのだ。(中略)国際政治学者の福井雄三・東京国際大学教授は、手記を「歴史的発見」と評価した上で、辻の主張に理解を示す。
「近年になってソ連側の資料が公開され、日本軍が圧倒されていたというのは誤りだったことが明らかになりつつある。日本軍2万5000に対し、ソ連軍は23万の大軍を投入したが、むしろソ連側の被害のほうが大きかった。
日露戦争のことを云ってゐる気もするが、これだけだと判らない。福井さんが云ふのだからノモンハン事件のことなのだらう。先の戦争について
もし中国を陣営に引き込んでいれば、〈支那に百万の軍を節約し、これと提携して当たれば、米国も容易に勝つ見込みなく、いわんやインド民族の心からの協力を得るにおいては、この戦争は負ける戦争ではなかった〉とまで言う。
次に
〈ビルマ攻略後の勢いでインドを解放し、ドイツと共に、トルコを陣営に入れ、「スエズ」を衝くか、あるいはソ連を攻撃して、一方の強敵を斃しておけば、今日の事態は変わっていただろう。しかし、松岡(洋右)外相が天皇の名において締結したばかりの不可侵条約が、「ヒットラー」のように裏切れなかったところに日本人らしさがあった。しからば、進んでインドを衝くべきであったが、数年後敵の準備完成してから初めて、「インパール」を攻略しようとして、手も足も出なかった〉
これについて
「ドイツがソ連に侵攻したときに、日本も日ソ不可侵条約を破棄し、ソ連を東西から挟み討ちにすべきだったと言っている。そうすれば、ソ連の戦力は分断され、スターリングラードもレニングラードも陥落したかもしれないということです。
イギリスのチャーチル首相も戦後に出版した『第二次大戦回顧録』で、ドイツがソ連に侵攻したときに、日本が北進せず、南進したのが最大の幸運だったと述べていて、辻の主張と一致します」(福井教授)
開戦時の戦力は、日本が優勢だった。それを敗戦させたのだから、陸海軍と外務省上層部の責任は重大だ。辻が挙げなかった敗戦理由に、アメリカの兵器航空機の改良には異常なものがある。その延長戦上に原爆がある。真珠湾攻撃をしなければ、アメリカはここまで対抗しなかっただらう。或いは真珠湾で徹底的にアメリカの艦船と地上施設を破壊すれば、アメリカの勝利は無かっただらう。真珠湾の中途半端な攻撃が敗戦をもたらした。
あと、ドイツのソ連侵攻は、ヒトラーによる日本への裏切りと思ってゐたが、日独間の文書を見ないと何とも云へなくなった。
七月二十八日(日)
次は「歴史街道」2013年10月号に載った元防衛大学校教授平間洋一さんの
戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた!
と云ふ記事だ。PHPオンライン衆知に最近載った。ミッドウェイ海戦について
日米戦争の転換点となったこの海戦で、日本は虎の子の空母4隻を失うという大敗を喫し、以後、劣勢に立たされる。この時、大和を軸とする主力部隊は、空母機動部隊の500キロメートルも後方にあり、ついに戦闘に加わることはなかった。(中略)大和は機動部隊とともに行動させるべきだった。
この一言に尽きる。軍令部と連合艦隊司令部の二重組織が、なぜこんなことに気付かなかったのか。二重組織だから、下手に発言して失点を恐れた、或いは主役としての責任感が欠乏したと云へる。
戦艦が空母より遅いなら、戦艦の艦隊が先行し、空母の艦隊がミッドウェイ手前で追ひつくやうにすべきだ。
ミッドウェー海戦に敗れた後、日本は反攻に転じたアメリカと、ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って死闘を演じた。(中略)この間、大和はトラック島に進出していながら、ガダルカナルの戦いに投入されることなく、「大和ホテル」と椰輸されるほど無為に碇泊する日々を送っていた。もし、大和が初期のヘンダーソン基地砲撃から戦闘に加わっていれば、戦局は大きく変わっていただろう。
これも二重組織の弊害だ。
日本が真珠湾攻撃をしていなければ、アメリカも当初の対日戦略に基づき、マーシャル諸島沖を襲撃しようとしたはずだ。(中略)日本は大和を12月16日に竣工させており、(中略)、大和の完成を待って宣戦布告してもよかった。
その場合、決戦の帰趨はどうなっただろうか。当時の日米の航空戦力比は、太平洋正面では空母では10対3、航空機では2対1と日本の優勢であった。しかも米太平洋艦隊のキンメル長官は戦艦第一主義者で、航空機搭乗員を「Fly Boy」(蝿少年)と軽視しており、日本の航空部隊に対する備えは甘いと見ていい。また戦艦の砲撃においては、アメリカの決戦距離は約2万メートルで、命中率は3パーセント。対する日本海軍の砲撃の腕前は世界一で、命中率は少なくともその3倍はあった。
山本五十六の敗戦責任は重大だ。本当は、その上の軍令部総長に一番の責任があるのだが。
大和の有効な戦略的活用ポイントは、もうひとつ挙げられる。それは、インド洋への投入である。真珠湾攻撃の成功後、日本海軍は昭和17年4月に、南雲機動部隊をインド洋に派遣し、セイロン沖海戦でイギリス東洋艦隊を痛撃した。この作戦終了後、日本海軍は大和以下の水上部隊主力をインド洋に投入し、通商破壊作戦に従事させるべきであった。
(中略)イギリス本国はオーストラリアからインド洋を経て食糧を、アフリカのイギリス軍は地中海をドイツに押さえられたために、インド洋を通じて軍需物資を得ていた。インド洋はまさにイギリスの命綱であり、それを断ち切ることができれば、イギリスを窮地に陥れ、第二次大戦の帰趨も大きく変わったに違いない。
しかもこの通商破壊作戦は、極めて成功する可能性が高かった。
私は記事を引用する前に、兵器の改良を怠った日本、戦機はいつでもあると信じて引き延ばした日本が、敗因だと予想した。しかし平間さんの主張は遥かに優れ、私の批評も二重組織批判に移った。(終)
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