千二百九十七 上座に関係する書籍を読む(7.中村元、三枝充悳「バウッダ ・仏教・」)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月十日(金)中村さん著述の部分
バウッダはサンスクリット語で「ブッダを信奉する人」の意味ださうだ。中村さんと三枝さんの共著だ。とは云へ中村さんの書いた部分は少ない。
原始仏教では(中略)「遵守すべき永遠の理法」があると考え、それを「法」(原語略)と呼んだ。
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そして
「法」を仏教では説くのであって、教義を説くのではない。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見(原語略)である、として仏教ではこれを排斥する。
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さて
釈尊のもとにおもむいた人びとは、世の苦しみ、悩みから逃れて(以下略)
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この文章の「(以下略)」の部分には「自分の道を求めようとした」が入るが、自分の道を求めようとした人はゐないのではないか。涅槃を求める人と、世の苦しみや悩みから逃れようとする人たちだ。中村さんの書いた文章にも間違ひはあるので注意が必要だ。それよりここで重要なことは、初期の仏道は世の苦しみや悩みから逃れようとする人たちが中心だったことは、後の時代とは異なることに注意が必要だ。

五月十一日(土)三枝さん著述の部分、その一
45ページに部派分裂の図が載る。ここで貴重なのは、上座部から矢印でセイロンと書かれてゐる部分だ。セイロンに仏道を伝へたのはマヒンダ長老で、アショーカ王の時代だ。根本分裂が起きたのはアショーカ王の時代またはそれより少し前だから、こんなことはすぐ判ることなのに、日本のほとんどの書籍は、根本分裂の後に次々と起きた枝末分裂の一つの派がセイロンに渡ったとする。これは根拠のない嘘である。
この図には枝末分裂の後に
アビダルマ仏教、卑称の「小乗仏教」という語は用いない

とあり、これはよいことだ。と同時に、この卑称は図によると枝末分裂後の各部派のことなので、今後、上座部にこの卑称を用ゐるニセ学者がゐたら厳しく批判しようではないか。次の話題に移り、富永仲基について
『出定後語』にあふれる仏学の批判(というよりは不動の地位を誇示していた「教判」への批判)
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として8行を引用のあとこれを解説し
釈尊の道(仏教)が完成、その没後に「結集」があって、(そののちに根本分列が起こり)、二部に分かれ、二部からさらに十八部に分裂し、これらの多くの部派は「(中略)有」を説いた。そのあと(中略)「空」の説がその特徴である般若経が作られて、これが「大乗」といわれる。そこで法華経が出て(以下略)
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日本国内の一部に存在するニセ仏教学者よりはるかに正確だ。三枝さんも
このような古典文献学の方法論に依って仏典の成立史を論じたのは、世界の仏教研究史において最初であり、(中略)ヨーロッパの古典学--文献学の方法論およびその結論に共通するところがきわめて多く、しかもそれより約一世紀も先んじている。
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称賛は続き
仲基の学識を、たとえば本居宣長(一七三〇 - 一八〇一)は(中略)特別に言及して絶賛を惜しまない。

ところが
これらの純粋の古典学研究は、それから六〇年余を経て、思わぬ方向に発展した。すなわち、かなり偏狭な国学を当時の風潮にそって扇動した平田篤胤(一七七六 - 一八四三)ほかによって、仏教を嘲笑しつつ、攻撃し、排斥するという偏見の吹聴にそれが利用され、(中略)やがて迎える明治維新は、その指導者のブレーンに、篤胤に傾倒した多数の国学者たちが参画して、彼らは明治初期の極端な廃仏毀釈の政策を強行し(以下略)
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この流れの行き着いた先が、先の敗戦と、戦後の寺院と神社の劣化だ。

五月十二日(日)三枝さん著述の部分、その二
パーリ語では、経蔵を「スッタ・ピタカ Sutta-pitaka」と称し、また「五つのニカーヤ Nika-ya(a-はaの上に線)(部)」、すなわち「五部」と呼んで、普通は「アーガマ」の語を用いない。(77)
「アーガマ」はまだしも「阿含」は、或る新興宗教が原始仏典とは無縁なのに勝手に使用してゐる。今後は「阿含」の語は使用せず、「アーガマ」を用ゐたほうがよい。
パーリ第五部の「小部」は、現存する漢訳経典には、それがそのまま相当するものはない。しかし、次の二点が注目される。
第一に、(中略)「小部」に含まれる諸経典ときわめて密接な関係にある(中略)何点かが漢訳されて、ひとつの独立した単訳経典として伝えられている。(以下略)
第二に、パーリ語の「クッダカ」は(中略)「小」の意味もあるが、「雑」の意味もあり、(中略)化地部・法蔵部・大衆部などが「雑蔵」を所有していた、と文献はいう。

これまで、釈尊の時代の教へは複雑ではなかったと思ってきた。それは中村元さんの著書の影響もあるが、修行者や在家者が激増したのは判り易いからだったと云ふ確信があった。ところが小部は、後の時代に経蔵へ加へられたことを知り、考へを一旦は変へてみた。
今回、一か月以上を費やして「上座に関係する書籍を読む」の1.から7.までを執筆してみて、再度考へが変はった。小部は第一結集で本編として存在したものが、その後の長年に亙る経の種類ごとに纏められる過程で、別編扱ひになったのではないか。もし第一次結集になかったのであれば、その後に伝承されるはずがない。
これは小部に最古の経典が存在することを突き止めた、文献学のおかげである。次の話題に移り七仏通誡偈について
富永仲基もこの詩を「迦文(釈尊)の文」とした。
(112)
仲基について書かれた五十七頁にもこの記述はあるが、貴重な情報だ。
「小部」の経典、ことに『スッタニパータ』に見られる無我説は、きわめて数が多く、内容も豊かであり、(中略)執着・我執・とらわれの否定ないし超越として、無我が説かれており(以下略)
(133)
内容をまとめると
欲望の底に執着があり、その執着の根に自我がある。そして、仏教の説く無我は、そのような自我を根底から否定する。『スッタニパータ』は無我を以上のように説いている。
(133)
完璧な説明である。文章は続いて
このような無我説を、他の資料とくに四部四阿含では、さらに分析的に説く。それによると(中略)無我を「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない」と説く。
(133)
「これ」を、五蘊、六入、六境などに当てはめて説くと云ふ。ところが
やや新しい解釈として、自我ないし我を「それ自身で存在するもの」、すなわち「実体」もしくは「本体」ととらえ(以下略)/このような新しい解釈は、釈尊から百年(別説、二百年)以上を隔てた、中期仏教の部派仏教において(以下略)
(134)
漢訳の長阿含経、中阿含経で
なぜ(中略)「自燈明、自帰依」が「法燈明、法帰依」を伴っているのであろうか。
(137)
自燈明は利己主義と誤解されがちなので、万人に普遍的な法に昇華したといふ。パーリ語に自己しかないことについて三枝さんは何も言ってゐないが、釈尊の言葉をそのまま伝へたことと、このままでもインド人なら真意がわかるためではないか。漢訳や日本語訳だと、後半が必要なのであらう。(終)

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