千二百九十七 上座に関係する書籍を読む(6.中村元選集第14巻「原始仏教の思想 下」)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月九日(木)
原始仏教の思想体系というと、人々は四種の真理(四諦)とか十二支による縁起(十二因縁)とかいうものをもち出してくる。しかしこれらの体系はかなり遅れて成立したものである。(3)
十二因縁は予想が付くが、四諦もさうだとは意外だ。しかし文献学は尊重し、今後の仏道発展に役立たせる必要がある。
原始仏教では理想的人格(仏)、普遍的な教え(法)、人々のつどい(僧)を三宝と呼ぶ(以下略)
(9)
理想的人格を仏宝とは意外だが、それより仏宝は釈尊なのかそれとも阿羅漢なのかの疑問が出て来る。次に、苦集滅道の滅について
漢訳者は、仏教の理想の境地(原語略)を「滅」という字で表現したために、仏教は挙無論を説くものだというような印象を一般に与えてしまった。
(16)
これは正しいのだらう。ベナレスの説法について
後になってかこつけられたものであるが、しかし原始仏教の諸体系のうちではかなり古く(中略)遅くとも、仏教がマガダ国地方にひろがりつつあった時代(すなわちアショーカ王以前)に属するということは、まず確かであろう。
(18)
中村さんが、アショーカ王以前を、原始仏教でかなり古いと表現したことは貴重だ。スリランカに仏道が伝はったのはアショーカ王の時代だから、スリランカは正真正銘の「上座部」と云へる。
最初期の思想によると、この四つの真理を知ることによって覚れる者すなわちブッダとなることができた。ところが後代になると(中略)単にあらかんになるための教えにすぎないと考えられるようになる(以下略)
(22)
中村さんはこの思想の萌芽はかなり古いと続けるが、ここで釈尊は阿羅漢だと云ふことは上座の仏道では常識だ。阿羅漢をブッダより低いなんて低級なことを中村さんでも、ときに云ってしまふ。中村さんの説にも間違ひはあるから要注意だ。
良き医者はまず(1)『病いを知り』、(2)『病原を知り』、(3)『病いを知って退治し』、(4)『病いを治することを知りおわって、当来(未来)にさらに動発せしめず』
(35)
なるほど四つの真理の一番目は、「苦を知る」だった。これまで一番目と四番目が名詞なのは変だから「人生は楽だがこれを苦だと思ふやうにする」と解釈してきたが、これなら判る。とは云へ、現代社会では人生は楽だと思ってゐる人が多いから、私の解釈は現代人向けではある。楽とは云へ、地球滅亡と引き換へだが。
四種の真理を知ることによって解脱が得られるのであろうか、(以下略)
恐らく原始仏教徒は、人間が真理を見たならば、その観ずる主体は、その見たとおりになってゆくと考えていたのであろう。
(38)
これは明察だ。やはり中村さんは仏道中興の祖だ。

五月十一日(土)
最初期の仏教においては「食料からの縁起」を説いていた。(中略)「苦しみは食の縁から起こる」(以下略)
これについて中村さんは
思うに、最初期の仏教徒は苦行を重んじ、食物を節することを説いている。『スッタニパータ』による限り、釈尊は身を瘠せさらばえさせてさとりを開いたのであり、村の少女のささげる乳糜を飲んで云々というのは、遅れて成立した伝説である。だから最初期の仏教徒は、食物を節し、制することによって煩悩の消滅した状態を実現し得ると確信していた。それは当時の他の諸宗教(ジャイナ教など)と共通であった。ところが仏教がひろまり不苦不楽の中道が説かれるとともに、右の教えは実際問題として看却されてしまった。
(127)
釈尊の成道以降も、変化はあり得る。上座の仏道各国は今までの伝統を続けるとともに、世界中の仏法学者は釈尊当時の原始仏法、釈尊成道後のの経年変化について研究を進めることは有意義なことだ。
最初期の仏教の発展のある時期において、認識作用は究極の原理と見なされていた。
『いかなる苦しみが生ずるのであろうとも、すべて認識作用によって起こるのである。
認識作用が消滅するならば、苦しみが生ずるということは有り得ない。』
(前略)恐らく禅定に入って心作用が停止し、したがって認識作用のなくなった状態を考えていたのであろう。
(139)
ここは何とも云へない。私の頭の処理能力を超える。認識作用の無くなったなんて言ってゐて、利己主義だと大乗側から批判されはしないか。
老い死ぬことを完全に知り、老い死ぬことの生起を完全に知り、老い死ぬことの消滅を完全に知り、老い死ぬことの消滅におもむく道を完全に知るならば、また生まれること、生存、執着、(以下略)
(174)
これも私の処理能力を超える。じっくり考へて、いつか私の意見を出したい。次に欲界、色界、無色界について
最初のうちはこの地上の世界とうるわしい形や色のある天上世界(原語略)とだけを考えて、それらは無常であり、老い朽ちるものであると考えた。(中略)「無色界(物質の無い世界)」というものは、まだ考えられていなかった。
(220)
これは今でも正しいのではないか。色界と無色界について上座の比丘が言及することはほとんどない。長い歴史の伝統として、特に宗教と科学が未分化だった時代は、今だと科学者になった人も比丘になったから、そこには科学的発想が入る。伝統は将来に役立つであらうものと、現代に役立つものに分けて、現代に役立つものを活用すべきだ。
最初期の原始仏教では、恐らく仏教以前からあったジャイナ教その他の仏教外の思想の影響を受けて『無所有』という境地をめざし(中略)、のちにパーリ文『中部』経典の原型がつくられた頃には、その表現がすてられて(中略)アーラーラ・カーラーマに帰せられるに至ったのであろう。
(231)
その考察の延長線上に
原始仏教の最初期A(--それは最古の典籍、パーラーヤナ篇によって代表される--)においては、我執を離れることを説いた教えの必然的帰結として<無所有>の境地をめざし(中略)ジャイナ教徒などもまた理想の境地としてめざしていたことである。その境地は『想いからの解脱』(原語略)と呼ばれている。
ところが仏教がさらに進展して原始仏教B(--それはアッタカ篇によって代表される--)の時期になると、さらに一歩を進めて、究極の極地『想いが有るのでもなく、無いのでもない』と説くようになった。恐らく最初期Aのように『想いが有るのではない』『何ものも存在しない』と説いただけでは虚無論と誤解されることもあったので、それを避けたのであろう。
(234)
これはあり得る。
そうして仏教がさらに飛躍的に発展した時代(--アショーカ王以後、或いは早くてもナンダ王朝以後--)になると、右の最初期A・Bのような思想では、時代の人心の要求に適合しないことになり、<無所有>の思想をアーラーラ・カーラーマにかこつけ、<非想非非想>の思想をラーマの子・ウッダカにかこつけるようになり、仏教は新たな思想を展開したのである。その事情は後代において、小乗仏教に対して大乗仏教が起こった事情に似ている。
(235)
前半はおそらく正しい。後半の大乗の事情には反対だ。小乗仏教の語は、中村さんの年代だとやむを得ない。大乗について、日本では多くの人が誤解してゐることが二つある。まづ日本以外のアジアでは、大乗も戒律を守る。二番目に、日本で大乗と言った場合は鎌倉仏法を指すが、本来の大乗は止観(サマタとヴィパサナの瞑想)をする。日本の特異性を理解し、アジアの大乗のことなら賛成だ。
ここでスリランカ系の上座は、アショーカ王の時代にマヒンダ長老が伝へたから、最初期Bのものと云へる。
三界説は聖典の詩句の中にはまだはっきりと表れて来ないが、その萌芽を認めることができる。(中略)まず最初に世界を二つに分けて物質的領域と非物質的領域とがあり(中略)
『物質的領域に生れる諸の生存者(原語略)と非物質的領域に住む諸の生存者(原語略)とは、止滅を知らないので、再びこの世の生存にもどって来る。/しかし物質的領域(原語略)を熟知し、非物質的領域(原語略)に安住し、止滅において解脱する人々は死を捨て去ったのである。』(241)
ここで注目すべきは、死を捨て去ったの部分だ。二度と生まれてこないと云ふより、こちらのほうが人々に受け入れられる。
やがてすぐれた形質のみ存在する領域(色界)とかたちの存在しない領域(無色界)とが特別の場所と考えられ(中略)
『すぐれた物質の領域(色界)に上り行く衆生であろうとも、物質の無い世界(無色界)にとどまる衆生であっても、/<それらの衆生の>しずまった禅定、--それらのいずれにおいてもこの迷闇は滅ぼされた。」(241)
我々の住む世界を含め、これで三つが揃った。
「道の究極に達した人」「正覚者」でもなお学びつつある人(sekha)であると考えられた。後世の教養学で究極のさとりに到達した人はもはや学ぶべきものの残されていない人(無学)であり、それ以前の人は学ぶべきもののある人(有学)と解せられたのと正反対である。
(257)
これは前者のほうがよい。(終)

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