千二百九十七 上座に関係する書籍を読む(5.中村元選集第15巻「原始仏教の生活倫理」)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月三日(金)第一編倫理の基礎
再び中村さんの著書に戻る。バラモン教は呪術的だった。
そこで独立の哲学的思惟を徐々にめざしていた人の思想の集録であるウパニシャッド聖典においては、呪術的なものからの離脱をめざして真実の自己(アートマン)を把捉すべきことを強調していた。しかし具体的な倫理については(中略)散説されているだけである。(3頁)
それに対し
ところが仏教では非常に具体的な倫理が説かれている。/仏教の教える実践は、一言でいうならば、道徳的に悪い行為を行わないで、生活を浄めることである。(中略)悪をのぞくことが解脱への道であると考えていたいたわけである。(4)
仏法は道徳と変はらないと云ふ批判に対し、私はこれまで悪いことをせず善いことをした上で瞑想を行ふのに、瞑想を云はないから道徳に見えてしまふ、と思ってきた。しかし中村さんにここまで断言されると、悪いことをしないのが解脱の道なのか、と考へ直してしまふ。
すでに古ウパニシャッドにおいて、『非難されることのない行為のみを行え。それ以外の行為を行ってはならない。(以下略)』というし、またジャイナ教でも同様のことを説いているが、それを受けているのである。/そこで定型的表現として、次の有名な詩が成立した。(6)
として諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教を紹介する。しかしここで注意すべきば「自浄其意」だ。悪いことをしない目的は意を浄化することにある。瞑想の目的も意の浄化だから、瞑想は目的ではなく手段と考へるべきだらう。瞑想のもう一つの目的である智慧はどうなるのか。中村さんのこの部分を読んだだけだと何とも云へない。
ゴータマは真実の修行者(原語略、沙門)、真実のバラモンたる道をみずから人々に興じするものであるという立場を標榜している。そうして昔の徳行のすぐれた聖仙を称賛している。仏教徒はゴータマ出現以前からすでに仏教的実践の行われていたことを承認している。(6)
中村さんは、最後の一文の根拠として過去七仏、或いは二四仏を注釈に挙げるが、過去七仏或いは二四仏は仏法の範疇だ。バラモンは仏法外だ。だから前者を後者の根拠にしてはいけない。中村さんの云ふことにも間違ひはあるので、要注意だ。
ゴータマ・ブッダが八正道を説いたかどうかは疑問である。少なくともかれの活動の初期には説かなかったことである。(21)
八正道は複雑だが、正見のあと、奈良さんの明察に従ひ、身口意の三つを逆にして当てはめれば、残りは正しい生活、正しい努力、正しい気づかひ、正しい精神統一だから、複雑ではなくなる。だから最初から説ひたとしても不都合はないが、中村さんの説が正しいのだらう。それよりブッダの時代を初期と後期を分けたことに注目すべきだ。原始や部派の仏法は後期の影響が強い。そのことは二千五百年の伝統があるから尊重するとともに、科学の発展で初期の説法が判った場合に、これを上座の仏法に逆注入することも、外国での活動を考へると悪いことではない。
ところでパーリ文では最後に意外な結論が述べられている。(中略)八正道-->正しい智慧-->解脱(41)
次に
この八正道の実践を中道と称する。不苦不楽の中道という意味である。(1頁略)「中道」とよぶのは言語の直訳であるが、誤解をひき起こす恐れがある。「中道」というと、どっちつかず、と解せられるからである。(中略)だから漢訳では「至要之道」と訳していることがある。つまり「最も適切な道」という意味なのであろう。(44)
これは貴重な情報だ。
人は何故に諸の美徳を実践し、悪を避けねばならないか? 原始仏教の説くところによると、善をまもり、美徳を実行するならば、いつか将来にはよい結果が生ずるというのである。(中略、ここで散文を紹介したあと)前者は良いところ・天の世界に生れることであり、後者は悪いところ・地獄に生れることである、と続けて説明されている。(46)
先ほど解脱の道として、善を行ひ悪を避けることが必要なことを紹介したため、平衡を取って信徒向けも引用した。さて
ニルヴァーナはひとり出家修行者のみの達し得る境地であるが、稀には在家者でもその境地にあずかり得るかのごとく説いていることがある。(48)
ここで引用したのは、在家者でも涅槃に達することを云ふためではなく、さうなることは極めて稀で少なくとも我々の周りではあり得ない。
五月四日(土)第二編世俗人の倫理、第一章と第二章
後に説一切有部の伝えた或る原始経典においては、或る場合には出家者と在家者とを対等のものとして説くに至った。
『出家のひとと家に居る(=在家)ひととは、展転して互いに相い依る。法に力むる二輪によって、連ねてニルヴァーナの路に至る。出家のひとは在俗に依り、如法の資具を得る。在俗のひとは出家のひとに依って、微妙の正法を獲。二衆互いに依って、人と天との快楽を受け、生・老・病・死を度り、清涼のニルヴァーナに至る。』
こういう見解を受けて、世俗肯定の思想がやがて大乗仏教において明確に展開されるに至ったのである。(65)
大乗が小乗と呼んで批判したのは説一切有部だったと云はれる。さて別の史料によれば、部派、大乗、部派大乗兼学の寺も多かったと云ふ。
フィールディング(Fielding)はビルマの実情を詳細に述べているが(中略)ビルマがまだ経済的には低い発展段階にあったのに、昔から婦人にこのような地位を認めているのは、どうしても原始仏教思想の感化があったと考えねばならぬであろう。近年でも南方仏教(Therava-da、a-はaの上に横線)の感化のもとにある国々では(中略)離婚ということは稀である。(中略)仏教学者リス・デヴィッズは(中略)セイロンで裁判官であったときの経験では、セイロンでも離婚率は極めて低かったという。これは機械文明の極度に発展した非仏教国、例えばアメリカの場合といちじるしい対比を示している。(100)
ここでまづ注目すべきは、中村さんはTherava-da(a-はaの上に横線)を南方仏教と訳してゐる。上座部の名称を用ゐたくない日本の一部大乗関係者は南方仏法を用ゐるとよい。
離婚はそれ自体より、そこに至るまでの家庭不和とそれが職場や近隣に与へる影響を考へれば、離婚率が高いことは社会が病んでゐると云へる。アメリカは社会が定常状態に達してゐない国だ。否、地球が滅びるまでにアメリカは定常状態に達しないだらう。日本は、そんな国を真似してはいけない。
五月五日(日)第二編世俗人の倫理、第四章
原始仏教は自殺の問題をどう考えていたか?(中略)重病で臥せっていたヴァッカリ・ビクがいった、/『我が身は苦痛極まり、(以下略)』そこでヴァッカリは刀をとって自殺した。(中略)釈尊は、/『かれの魂はどこかにとどまることなく、完全にときほぐされたのである。』と答えたという。この話から見ると、完全に修行したビクが、もはやこの世に生きていても無用であり、自分も苦痛に堪えないと思ったときには、自殺することを承認していたのである。(209)
この中村さんの説には100%不賛成だ。まづこの出展は註釈によると、増壱阿含経で大衆部のものだ。中村さんは説一切有部の「雑阿含経」にははっきり出てゐないとする。だとすれば大衆部の説であり、部派全体のものではないし、ましてや原始仏教のものではない。中村さんの書籍はほとんどが正しく、だから日本の仏法中興の祖とまで持ち上げたが、一部にこのやうな間違ひがあるから注意が必要だ。
では修行を完成していない修行僧や世俗人の場合についてはどう考えていたのであろうか?はっきりした見解は表明されていないが、自殺したところでどうせ輪廻を繰返すのだから自殺は無意味だと考えていたのであろう。(210)
この説には200%不賛成だ。つまり100%分批判しなくてはいけない。他人でも自分でも殺したのだから、無意味ではなく重大な罪悪を作った。
釈尊は(中略)もったいぶった学者や宗教者のことばで語ろうとはしなかった。(以下略)
釈尊は修行僧らに告げた、/「修行僧らよ。仏のことばをヴェーダの韻律で述べてはならない。(中略)。修行僧らよ。めいめいの方言で仏のことばを学ぶことをわれは許す。」(中略)釈尊はサンスクリット語で統一する意図は無かったのである。(226)
それなのにパーリ語とサンスクリット語の経典しか残ってゐない。釈尊の話された言葉がパーリ語なら、他の部派にもパーリ語の経典が残るはずだし、釈尊の話されたのがマダガ語でそれはパーリ語と多少は異なってゐるのなら、いろいろな言語のものが残ってゐなくてはいけない。ここを仏教学者はぜひ解明してほしい。
ジャイナ教徒は、初期においては酒に関してはさほど厳重ではなかったようである。(中略)仏教でも最初の時期には「飲酒を制すること」を説いていた。それは、全然飲まぬことなのか、少しは差支えないのか、はよく解らない。恐らく前者であろう。しかしジャイナ教が次第に飲酒を厳禁するに至ったのと同様に、仏教も飲酒を厳禁するに至った。(227)
このあとインドは今でも政府の公の宴会で酒を出さないとした上で、インドでは椰子の実に傷をつけると24時間で醗酵するが、精製されてゐないから健康に悪く、暑いから体をこわす。
ところが北の方へ行くと、ゆるくなる。ネパールの若干のヒンズー寺院(カーリー女神などを祭ってあるところ)では境内に酒店がある。こういうわけであるから、原始仏教でやかましく言ったのは、多分に風土的社会的理由があると考えられる。(231)
ネパールではなくインド北部はどうなのかと云ふ疑問はある。しかし風土的社会的理由は正しいし、個人差がある。ストレスが溜まる人は酒を飲むと百薬の長になるが、酒に弱い人や本心からまだ邪悪な部分が消えない人が飲むと、よくない結果になる。今は科学が発達した時代だから、一律に禁止するのではなく一人毎に許容量を決めてもよいのかとも思ふ。
『九横経』によると、次の九つの理由によって、『命が未だ尽きざるに横死する』という。(237)
として食べてはならぬものを食べるなど九つが書かれる。これについて
こんなに注意してまで長生きする必要があるのだろうか?(中略)出家修行者に長寿は願わしいことなのであろうか?早くニルヴァーナへ入ってしまったほうがよいのではないか?(中略)これは明らかに矛盾であると私は思う。(239)
私は矛盾だとはまったく思はない。早く死んだほうがいいと食べてはならぬものを食べたりすることは、自殺とは云へなくてもそれに次ぐ行為だ。そんなことをしたら、ニルヴァーナ取り消しだ。ニルヴァーナに取り消しなんてあるかと云はれさうだが、生前ニルヴァーナになると云ふことは長生きし、その間も修行を続けると云ふ条件の付いた限定免許だ。中村さんは続けて
ニルヴァーナの教えそれ自体が、仏教にとっては、当時の他の宗教からとり入れたものにほかならず、一種の方便説にすぎなかった。だからニルヴァーナの教えを捨ててしまっても差し支えないのである。---後代の密教徒が行ったように。(239)
これは中村さんとは思へない暴言だ。ニルヴァーナで輪廻を抜けることは仏道の基本だ。また、後代の密教徒が行ったようにと云ふが、後代まで本当のことに気が付かなかったとでも云ふのか。
パーリ文によると、四つの戒しめをたもって心がしずまって心の解脱が得られると、慈しみの心をもって一つの方角を遍満して観じ、あわれみ(悲)の心をもって他の方角を遍満して観じ、喜びの心をもって第三の方角を、平静(捨)の心をもって第四の方角を遍満して観ずるという。(251)
中村さんのこの文章を引用したのは、捨について間違った解釈をする人が多いためだ。四つの戒については
『殺生と盗みと虚言といわれるものと、他人の妻に近づくこととを、聖者は称賛しない』
(中略)この四つの戒しめは、バラモン教やジャイナ教など他のインド諸宗教とも共通であり、また仏教の教える徳目のうち最も重要なものであった。(246)
五月六日(月)第二編世俗人の倫理、第五章
施しについて
のちの経典では、下人下僕に与えるよりも、道の人(沙門)すなわち出家修行者に与えたほうがよい、という。(中略)近代人はこういう主張に対して嫌悪を感ずるかもしれない。しかしここで後代の大教団の僧侶を連想してはならない。当時の宗教者は貧しい質素な生活を送りながら、しかも戒律を守っていた(以下略)(350)
これは同感だ。
西洋においてはユダヤ教及びXX教の反魔術性(原語略)の精神が資本主義の成立に大いに力があったと考えられている。(354)
その前にメソジストの開創者ウェスレーの主張である、
「出来るかぎり利得するとともに出来るかぎり節約する」ものは、同時に「出来るかぎり他に与える」ことによって、恩寵をまし加えられ、天国に宝を摘まねばならぬ
を引用し
ウェーバーはこの思想を資本主義の精神と見なしている。
仏道では
原始仏教の場合には(中略)反魔術性を婉曲なことばを用いて(中略)実現しようとした。
具体的には
バラモン教の呪術的用語を継承しても、その内容を改めて(中略)中和してしまった。
ところが
教団の発展とともに新たな魔術性が芽を出して来た。例えば、「商人のうちに成功する者と失敗する者とがあるのは、宗教者(原語略)やバラモンにかれらの欲するものを与えるか否かによる。」などと説かれるようになった。この魔術性は後代の大乗教、殊に密教では大規模に発展するに至るのである。(355)
このあと財産を獲得すべき理由を書かれた経典を紹介し、ここでは
世俗的な財産よりも精神的な財産を尊んでいるのである。/こういうわけで、仏教は財を絶対視していたのではない。(この点は唯物的な近代人とは異なる。)(中略)財がいつかは消えてなくなるものであるということも併せて説いている。無常説からは当然の結論であろう。(359)
ここまでは一部の例外を除いて賛成できる。しかし第六章以降は、正しいと思へない内容が多くなる。中村さんを仏法中興の祖と呼んだが、間違ったと思はれる部分を除いての話である。(終)
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