千二百七十九 北海道旅行記(3.日本で一番住みよい街は稚内、4.札幌のベッドタウンになってはいけない小樽)
平成三十一己亥年
三月九日(土)函館
家を六時に出て、大宮から新幹線に乗り、新函館北斗に到着し、在来線に乗り換へて、函館駅に到着したのは午前十一時二十五分だった。函館は2時間半の余裕がある。朝市は既に終ったが、昼食を食べようと観光客向けのレストランを覗くと安くて1200円。海産物で高くはないが、暫く歩くと地元の業者も使ふ雰囲気の建物があり、中にたくさんの食堂と海産物店が入る。そこで800円(税込)の三色丼を食べた。三種の海産物がご飯の上に並び、お得だ。沢庵を千切りにしたものが少し付く。野菜不足が唯一の欠点だ。
金森倉庫街、教会街を歩き、駅前で路面電車の信号を見た。電車が一つ目のトロリーコンタクター(架線に設置し、電車の通過を検知)を叩くと、それが交通信号に伝はり、路面電車が右折や左折するときに、二つ目を叩くまで黄色の矢印が表示される。かつて軌道側が信号機を設置した既得権の名残りと以前に想像したことがあったが、軌道側が優先になってゐない。一つ目を叩いたら次の信号転換期で黄色矢印を出し路面電車を優先させる。公共交通を優遇し、自家用車から路面電車への人の移動を図るべきだ。
函館を出発する直前に、街角の道案内図が目に入り、碧血碑に以前来たことを思ひだした。特急を南千歳で降り、石勝線のワンマン単行車で一駅。列車と云ふ用語を避けた。日没後なので外は何も見えない。駅間距離が長かった。追分駅は有人駅だった。室蘭本線に乗り換へて栗山駅で降りた。本日は栗山町に一泊する。街並みが綺麗で静かで落ち着いた街だ。
三月十日(日)稚内
昨夜は綺麗な民家の並ぶ街並みに感心したが、早朝に街中を歩くと物足りない。綺麗過ぎるのだ。札幌のベッドタウンなのか。だとすれば好きな街ではない。栗山から岩見沢に出て、特急で稚内に向かった。途中、警笛とともに減速した。外を見るとエゾシカが数メートルのところから、逃げるでもなくこちらを見てゐた。
稚内は日本で一番住みやすい街だ。これはバスの時刻表から割り出した結論で、別の尺度から見れば別の結果が出る。バスが15分おきに来る理由は、稚内の街並みを一歩出ると、近くにもう街はない。孤立してゐるから自動車で隣町に行くことがない。市内はバスが充実するから自家用車を持つ必要がないのだらう。これは住みよい街だ。
ノシャップ岬へ行った。最初、昔は納沙布岬と呼ばれた筈だがと思った。納沙布岬は北海道の東端、ノシャップ岬は北端。まったくの別物だった。道路の行先案内と食品スーパーの看板にロシア語も併記されてゐた。離島へのターミナルと、国際線ターミナルにも行ってみた。後者は国際便のあるときのみ開場するやうで、閉まってゐた。
三月十一日(月)旭川、エゾシカの死、網走
本日は、稚内から網走まで移動する。初日、最終日と並び、三日目も乗車時間が長い。まづ旭川まで戻り、ここでは乗り換へに2時間20分の余裕がある。平和通り買物公園を歩くが、首都圏各市の最新繁華街と変はらない。唯一の違ひは、それが延々と続く。あと街路放送がある。かつて東京にも、路面電車のあるところは街路放送があった。都電廃止とともに街路放送も廃止された。
観光案内書で1時間程で行ける観光地として酒造を教へてもらった。ところが歩道には積雪があり、ビール館の先で折り返し、ビール館は飲食店なのでその近辺のレンガ造りの同種の建物を見て駅に戻った。
駅の階段途中のベンチで昼食を食べ、しかし飲み物も欲しいのでホームまで上がると、列車が入線してゐる。誰も載ってゐないので整備の職員に訊くと乗車して構はないさうだ。残りの昼食は車内で食べた。
かなり経って一人また一人と乗車する人が現れ、札幌からの特急が到着すると、多数の乗客が合流した。とは云へ半分以下の乗車率だった。まもなく特急は発車し、一面雪の空地を走るのは退屈だ。退屈が限界に達した頃、警笛とともに停車した。稚内に行ったときの特急と同じで、窓の外にはエゾシカがゐた。スマホで撮影しようとしたが、くぼ地と木の陰で見えなくなった。稚内との違ひは停車したことだ。或いはエゾシカを轢いたかと心配した。暫くしてエゾシカと接触したので点検すると車内放送があった。
暫くして、三両目の下に死体があるので前に移動して撤去すると云ふ。私の乗った車両は最後尾なので乗務員室の窓から外を眺めてゐると、首をレールに乗せて轢かれた遺体が現れ、列車は停止した。車掌が足を持って胴体を線路外に移動させた。頭は放り投げた。もう一つ遺体の一部も放り投げるころ、運転士も来て胴体を更に1mほど外側に移動させた。乗客が続々と私の隣に現れた。まだ生きてゐるかと呟く人がゐたので首を轢かれたことを説明した。「小さいから雌だな」と云ふ人がゐた。幼稚園くらいの女の子を抱いたお母さんが外を見て「ゐないね」と自席に戻らうとするので線路から少し離れたところにゐますよと教へた。動物が食べに来るといけないから離したのでせう、と私が云ふと、カラスが移動させると言った。私はキツネやテンが遺体を食べるのに夢中で後続列車に撥ねられることを想定したのだが。
さすが北海道のママさんだ。血が流れなかったから食べられないね、と女の子に話しかけた。更に関心したのは雪が一面の土地なのに、どこからかカラスが電線の上に30羽ほど集まった。カラスが現れたのはかすかな救ひだ。エゾシカの死体はカラスに食べられ、自然に帰ってほしい。
この影響で15分遅れ、点検して異状はありませんでしたの放送とともに特急は発車した。特急とのすれ違ひで遅れは21分に拡大した。しかし遠軽の折り返しで14分遅れまで詰め、しかしその先の出没地域で減速したので、網走到着は24分遅れた。2回目の減速はやむを得ない。ここで撥ねたら、更に遅れてしまふ。
遠軽から先は、私の乗った車両が先頭車だ。運転室の後ろの座席が空いてゐる。ここに座り前の景色を見ながら網走まで走った。キハ183とある。国鉄時代に作られた良い設計だ。JR北海道になってからの特急は、前が見えない。運転室が上で中間車になったとき用の扉に窓があるのに、立ち入り禁止のロープが張ってある。
明日は網走から札幌まで、同じ経路で戻る予定だった。しかし考へが変はり、網走駅で時刻表を調べると、釧路まで普通列車に乗り特急で行けば小樽での観光時間も何とか取れる。網走駅で六回目、最後の指定券を発券してもらった。今回の旅行は八回特急に乗るので、空いてさうな二本は自由席を利用した。
三月十二日(火)小樽
昨夜は到着が遅かったので、街中へは食事の買ひ出しに留めた。本日は早朝に街中を散策する予定だったが、雪がかなり積もった。大型低気圧の影響で一昨日は本州がかなりの風雨だった。それが北上して昨夜は大雪となった。だから朝も食事の買ひ出しに留めた。
各駅停車で釧路に行った。青春18切符で長時間乗っても退屈しない理由が判った。特急は停車駅が少ないから、退屈する。だから四時間の壁が存在する。四時間を超えると飛行機に対する鉄道のシェアが激減する現象のことだ。
二十八年前に小樽に来たときは、確か弟子屈(現、摩周)駅で降りて、バスで摩周湖を廻り、そのまま夜に釧路駅へ着いた。急行の寝台車に乗車するのは深夜なので、駅内の閉まった商店の前を歩いたり、唯一開く「みどりの窓口」の時刻表を見たり、待合室でじっと座って待ったことを思ひ出す。みどりの窓口の営業時刻が短縮されたのはそのずっと後の話だ。
昨日の大雨で河川が増水し、影響が出た(詳細は独立させ近日中に発表予定)。小樽へは夕方の5時過ぎに到着した。ホテルでチェックインののち、小樽運河を見た。日本人と中国人の観光客で賑はった。小樽は魅力に溢れた街だ。札幌のベッドタウンになってはいけない。アーケード街が二つあるのも住みよい街の証拠だ。
三月十三日(水)旅行中の食事の変遷、その他
早朝に小樽の街中を散歩した。朝食と昼食を購入した。今回の旅行では、初日の函館では食堂で昼食を食べた。夕食も出来合ひの物(1日必要野菜1/3入りあんかけ焼きそば)を買った。その後は食品スーパーで購入するやうになった。
トマトは中型六個入りを二袋、みかんは六個入りを一袋、チキンハンバーグは三個パックを一つ、お魚ソーセージは四個組を一つ、食パンを二斤買った。
食パンは本来、バターやママレードを付けると美味しい。しかし旅先ではバターナイフがないし、一旦開けたバターやママレードは持ち運びに不便だ。パンは何もつけず、おかずといっしょに食べる。行き過ぎた路線を修正するため、最終のほうになって再び出来合ひを食べた。このときごぼうサラダ、カボチャサラダ(それぞれ120円前後)を一袋づつ購入し、二回の食事で食べた。出来合ひを買はない理由はここにある。タンパク質を優先すると野菜不足になる。野菜を優先するとタンパク質が不足する。今回初めての試みで、朝と夜はホテルでトマトを食べ、昼食はみかんで野菜の代用とした。果物は目的に寄り野菜の代用となる場合とならない場合がある。今回は繊維素の補給が目的だから、みかんは最適だ。
小樽は札幌から函館本線で45分行った位置にある。だから本来は小樽からそのまま函館方面に行ったほうが早いはずだ。ところがまさかの、どんな早朝に出発しても、新函館北斗を14時44分に発車する新幹線に間に合はない。これが間に合へば、北海道の主な路線すべてに乗車したことになったのに残念だった。今回の旅行は主な路線すべてに乗ることは目的としなかったが、たまたま帰路は釧路経由に変更した。そのためあと函館本線の長万部までに乗れば、北海道内の主要な路線はすべて乗ったことになるはずだった。
北海道の特急列車は、日本語、英語、中国語で放送される。これはよいことだ。日本人は外国語と聞けば英語しか頭に浮かばない人が多い。ほかにもあることを気付かせ苦くれる。更に中国は人口が多い。日本は今後、中国人を相手にすることが多くなる。観光産業のみならず、輸出入その他でも、中国語を使ふことの利点は激増する。
列車名や駅名は漢字を用ゐるほうがよい。中国や台湾からの来客も予想した命名は、漢字を共通の道具とする方向に向かふ。新函館北斗で14時44分の新幹線に乗り、大宮には18時38分着で帰宅した。(終)
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