千二百六十一 東武動物公園訪問記(1.園外篇)
平成三十一己亥年
一月二十二日(火)
昭和五十六年に東武動物公園が開園したとき、いつかは行ってみたいものだと思った。漫画「ぼくの動物園日記」のモデルとなり一躍有名になった西山登志雄さんを園長に迎へ、カバ園長として親しまれた。
私は西山さんが上野動物園に勤務した時代に何回も会話をしたと思ふ。それは小学生の時に、上野動物園が有料で子供向けに動物教室を開いた。四十人くらいの小学生が開園時間に保護者同伴で集合し、説明のあと動物ごとの班に別れた。
次の日からは開園前に飼育を手伝ふので、花園門でプラスチック製の円形バッチに紙を入れたものを示し入場した。母からは花園門と聞いたが、何十年かして調べたら都電の上野動物園前停留所の前が花園門で、ここは別の名称だった(停留所前の門は都電が廃止になって間もなく閉鎖になり、花園門だと思ってゐた門は、その後に業務用出入り口になった)。
私はカバ班になった。五名くらいの小学生が飼育係二名だったか三名から説明を聞き、飼育を手伝った。
最初はカバ班が嫌だった。地味だし、反対から読むとバカだ。しかし最終日までには好きになった。おとなしく地上に上がることもできるし鼻だけ出して水に沈むこともできる。
最終日は開園時間に保護者同伴で、園内のベンチが多数ある屋根の付いた売店の横で、各班の発表を行った。解散ののち、母が係に何か聞き、係の人と事務所に行き、会議室をお借りして、母は三十分くらい掛けて資料を書き写した。小学生と保護者のなかで、一番熱心なのは母だった。

西山さんが東武動物公園の園長になった数年後のニュースを今でも覚へてゐる。西山さんが休日の自宅引っ越しに手伝ひに来いと職員たちに言って、労働組合を結成される騒ぎになった。マスコミは、西山さんがはたたき上げなので、と好意的だったし、東武鉄道の幹部も、西山さんに管理能力は期待してゐないと黙認の態度だった。尤も西山さんはマスコミに目立つことばかりやると、批判的な意見もあった。

一月二十三日(水)
東武動物公園駅の西口広場は、かつて車両工場とその留置線があった。その跡地を広場にしたので、二本の平行線を描き色を変へてある。
宮代町役場の広場に、蒸気機関車が展示してある。東武鉄道で大正11年(1922年)から昭和41年(1966年)まで貨物列車を牽引し、平成6年(1994年)展示された。
私が興味を持ったのは、機関車に向かひ前面左側には操車掛用の添乗台がある。しかし右側には無い。ボルトとナットが右側と同じ位置なので、握り棒と台を外したのかも知れない。後方は左右ともに無い。握り棒は左右ともあるので台だけ外したのかも知れない。運転台の下に握り棒と台がある。登るときに使ふのだが、後方に合図するときはここに添乗したのかも知れない。
まもなく東武動物公園の東ゲートに到着した。開園まで10分あるので、外沿ひに木製のコースターを観に歩き、そのまま西ゲートまで半周した。
鳥獣保護区と書かれた埼玉県の赤い看板、フェンス沿ひに自動車を進めても駐車場に行けないと云ふ文面と代替経路、来園者からは隔離された空地に二匹のヤギ。これらを右手に、広がる農地を左手に見ながら半周が過ぎ、乗馬クラブの先に西ゲートがあった。

一月二十六日(土)
園内を一通り見た後だから午後三時くらいだらうか、西ゲートから一時退出の手続きをして外に出た。出て暫く歩いたところの小川を渡り左折すると東ゲートに向かふのに、このときは道が判らず駐車場を過ぎたかなり先の二車線道路を右折した。
暫く歩いて小道を右折すると左が農業用水になる。取り入れ口が何か所かあり、右側の田圃には対になった受け入れ口のないところとあるところがある。かつては見沼代用水の下流部もかうだつたのかと思ひながら歩くと小道の十字路があり、ハイキング途中みたいな数人が右側へ歩いて行った。この道も動物公園に行けるのかと思ったが、農業用水の取り入れ部を見れたので、不満ではなかった。
この先、運動場の造成だらうか右側に「立ち入り禁止 日本工業大学」の立て札のある広大な土地に沿ふ。それが終り右折するとさきほどハイカーの歩いた道と合流する。こちら側から日本工業大学の土地を見たところ、校舎を建築するのかも知れない。
民営とは云へ動物公園は国民全体の遺産だ。その周囲から田圃が消へ、それだけならまだしも高層の建築物は避けてほしい。かつて上野の不忍池から変な形の高層マンションが見えて、不愉快な気分になった来園者も多いことだらう。あのマンションは改築したのか建て替へたのか、今では醜い姿を見せなくなった。
そんなことを考へながら歩くうちに西ゲートに戻った。最初は東ゲートまで歩く予定だったが、ハイカーの小道へ合流した先ほどの右折十字路から先は、動物公園に沿はないやうだ。だから西ゲートから園内に戻った。(終)

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