千百九十九 生活協同組合
平成三十戊戌
九月十七日(月)
我が家が生活協同組合の組合員になったのは、二十五年前に今の会社に転職してすぐのことだった。横浜事業所の道路を挟んだ向かひに生協の店があった。組合員にならなくても単発では購入できたが、よく買ひに行くので早速組合員になった。そのとき思ったことは、自民対革新の革新側に貢献できると云ふことだった。
普通に製品を購入すれば、製造会社や流通会社の上層部は自民党支持が多いとしても、会社の労働組合は社会党または民社党を支持する。全体では中立だ。そのやうな中で生協を使えば、これは革新側になる。
まだ労使対決の雰囲気を残す時代で、国民全体に取り良い時代だった。ちなみに会社でも事務用品などをこの店で購入するため、組合員だった。

九月十九日(水)
その後、お隣が共同購入の班に入ってゐたのでそこに入れて頂き、共同購入を行った。共同購入すると2%だったか5%だったか数値は覚えてゐないが割戻金があり、これは出資金に加へられた。班に入ると、店で購入したときも1%だったか割戻金が付いた。
何年かしてお隣が共働きになったか何かの理由で、共同購入に参加できなくなり、人数が足りず班は解散した。しかし単独購入の制度があり、これは菊名のマンションに移転の後も続けた。
会社の向かひの生協の店は、イトーヨーカドーとサトウ無線ができて、サトウ無線は無関係だがイトーヨーカドーが原因で売り上げが激減し、閉店が発表されたものの近くの利用者の請願で半年だったか一年だか様子を見ることになった。しかし閉店になった。鶴見川の対岸にある商店街も大きく影響を受け寂れてしまった。

九月二十二日(土)
今回の引っ越しで、神奈川生協を脱退したときに、連絡してくれて埼玉の生協が来て手続きをした。名称が変はったので調べると、東京、埼玉、千葉の生協か合併したさうだ。本部は、我が家の近くにある。
今から四十年くらい前だらうか、今の本部がある位置に生協の店ができた。歩いて五分くらいのところに別の生協の店もできて、そこの生協は組合員の意見を反映しないと対抗して開店した。しかし売り上げが不振で、何年かして閉店し、跡地が生協の事務所になった。事務所は周囲の土地を併合してどんどん拡大した。それから十五年くらいして道路を隔てた反対側に、再び店ができた。今回引っ越してみると店が隣の敷地に移転し、大型スーパー並みの広大な建物になった。元の敷地はデイケア事業の事務所になった。
もう一つの生協は昭和五十七年頃に普通の店舗に転換した。昭和五十七年頃と断定できる理由は、毒蝮三太夫が出演するラヂオ番組があった(調べると「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」で、今も続く)。関東各地の商店や工場などを訪問し、集まった人たちに「シジイ」「ハバア」など毒舌を吐きながらおしゃべりをする番組だ。この元生協がラヂオ局に申し込んで毒蝮三太夫が来た。毒蝮が、生協なんですか、と訊いて、経営者が今は違ひますと答へた。おそらく表示がまだ生協になってゐたのだらう。
このころ会社の自動車で外に出ることが多かったから、ラヂオを聞いたのは昭和五十七年頃だと推定できる。私も看板が生協から変はったので、なぜだらうと疑問に思った頃だった。今回引っ越してみると店の名前が更に変はった。ここが元は生協だったとは、ほとんどの人が思はないだらう。(終)

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