千百八十六 1.八月十五日前後の記事で気付いたこと、2.内輪の規則と慣例
平成三十戊戌
八月二十三日(木)
今年も八月十五日の前後に、多くのマスコミが戦争を特集した。今年目新しかったのは、陸軍大臣は参謀総長を含む人事権を持ち、海軍大臣は軍令部総長を含む人事権を持つことを書いた記事が幾つかあった。
と云ふことは、陸軍で一番権力を持つのは陸軍大臣だし、海軍で一番権力を持つのは海軍大臣だ。それなのに陸軍の場合は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三人が合意しないと幹部人事を決められなくなった。
こんなものは慣例だから、後に陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定に書かれたとしても、規定自体が内輪のもので従ふ必要はない。現に真崎甚三郎を教育総監から更迭するときに、本人が拒否するから最初はできなかった。しかし参謀総長の閑院宮載仁が「お前は陸軍大臣の事務の遂行を妨害するのか」と発言したため、更迭が実現した。
これらの話を昔のことだと笑ってはいけない。代表取締役(及び法律には明記してないが社長)は取締役会が決めることなのに、実際は社長が次期社長を指名することがほとんどだ。労働組合は会社と対決するためにあるのに日本の労組は対決しないのが慣例だ。対決の必要のないときは、労組を結成してはいけない。

八月二十五日(土)
慣例には従ふ必要がないし、内輪の規定にも従ふ必要がない。私がこのことを主張したのは30代のときだった。某大手電機会社の子会社で、親会社の労組にユニオンショップで加盟させられた。労組は使用者側と対決するための組織だ。それなのに御用組合だった。
だから単組の大会で発言したところ、終了後に支部長が「全国大会で発言するときは前もって支部の検討会に云ふべきだ」と言った。それが慣例ださうだ。このこと自体は悪くない。全国代議員は支部から選出するからだ。
しかし慣例に従ふべきかどうかは時と場合による。労組が組合員のためになるのなら従ふが、ユニオンショップだと組合員は会社が雇用した者、つまり組合員加入者選択権は会社にある。そんな労組が組合員のために活動する筈がない。
私のこのやうな態度は親会社の工場(事業部の技術者は工場で勤務した。プラザ合意前の製造業はこれが普通だった)勤労課に目を付けられた。なぜ労組内のことで会社、しかも私とは雇用被雇用の関係にない会社が介入するのか不思議だが、「勤労課の規定では、君のやうな態度だと解雇に値する」と云ふので、「それは勤労課の内輪の規定なので、従業員が従ふ必要はないと思ひます」と言ひ返した。

慣例に従ふべきかは、時と場合による。規則どほりに実行すると、困る人が出て来るから、逆に慣例を優先させたほうがよい場合もある。私が柔軟になったのは、年を取ったことと、家庭を持ったことだらう。独身だと自由に行動できる。家庭を持つと、家族の生活を考へる。いつまでも独身でゐるのは良くない。出家者を除いて家庭を持つ。これも昔からの慣例だ。

八月二十六日(日)
今年の記事で次に目立ったのは、日本は勝算の見込みのない戦争になぜ突入したのか。しかし勝算の見込みがないとするのは正しくない。日本の陸軍は自信たっぷりだった。だから陸相時代の東條は開戦を盛んに主張した。
日本が敗戦したのは海軍のミッドウェイ海戦が原因だ。だから山本五十六には重大な敗戦責任がある。山本の敗因は、自分が先頭で指揮しなかったことだ。
だから真珠湾攻撃で機動部隊は二次攻撃をしなかったし、ミッドウェイ海戦で山本の乗る戦艦は機動部隊の遥か後方にあった。主力部隊が機動部隊の前にゐれば機動部隊は無傷だった。速力の遅い主力部隊をどうやって前に出すのかは、連合艦隊司令部が考へることだ。
三十年程前に長岡の山本五十六記念館を訪れたことがある。確か漢詩が飾ってあり、戦後の日本は大きくアメリカ化したことを感じた。今の時代に漢詩を揮毫する人はほとんどゐない。
数年前に長岡で乗り換へたことがある。時間があったので記念館の前まで行ったが中には入らなかった。早朝で開館前だったが、昼間でも入らなかっただらう。敗戦責任は大きい。国葬が行はれたのは、ミッドウェイ海戦の大敗北を国民に隠したからだ。
その一方で山本を再評価できるかも知れない記事もある。日経BizGateの
山本五十六、幻の「海軍大臣」プラン

で、それによると
山本が近衛文麿首相に語った「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れる。2年3年となれば全く確信がない」というセリフは有名だ。その一方で、及川古志郎海相には翌春の艦隊改編に合わせた「米内光政・連合艦隊長官、山本第一航空艦隊司令長官」案を意見具申していた。

これが実行されれは戦局はまったく変はっただらう。しかし山本の意図は別にあった。
自らの降格を意味するこの人事案は、山本の2段階作戦だったらしい、と畑野氏は指摘する。「山本が記した書簡によれば、米内を連合艦隊に迎えたあと、海軍トップの伏見宮博恭王・軍令部総長の後任に推す計画だった」と畑野氏。

これだとやはり山本の敗戦責任は覆らない。

八月二十六日(日)その二
今年も8月15日の前後に平和を求める記事がたくさん載った。平和は尊い。しかし日本の平和運動は、平和運動ではなく敗戦嫌悪運動だ。
敗戦が悲惨なのは当然で、悲惨だ悲惨だと繰り返すことでどういふ副作用があるかまで考へなくてはいけない。米ソ冷戦時代には、平和運動が正しく機能した。勿論、日本が共産側になることまでは国民が望まないから限度がある。だから日米関係の維持を主張することも悪いことではなかった。
米ソ冷戦が終結したあとは、平和運動と日米安保条約賛成派の両方とも変になった。これら問題点を当ホームページは20年主張してきた。そして英語公用語論や労働組合への介入で朝日新聞と不仲になり消費税問題で民主党(当時)とも不仲になったが、安倍のお友だち濡れ手に粟政策ですべてが白紙に戻った。
今すべきは安倍の改憲を阻止することだ。あんな男が改憲したとあっては後世の笑ひ物だ。阻止するためには「A級戦犯尊敬の安倍」と皆で呼ばうではないか。(終)

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