千百六十九 伊藤照司さん著「ビルマ仏教遺跡」
平成三十戊戌
七月十六日(月)下ビルマ仏跡
伊藤照司さんの著書「ビルマ仏教遺跡」を見つけたのは偶然だった。図書館の本棚で見つけた。本は縦と横が百科事典の大きさで、厚さも450頁ある。ミャンマーの仏教遺跡の事典とも云ふべき貴重な著書である。平成十五年に出版され、伊藤さんが昭和四十六年から平成十三年まで三十年間の野外調査の集大成である。
第一編下ビルマでは、ヤンゴン、タトン、バコー、バガンマンダレーなどを解説してゐる。。この辺り一帯は、元はモン族の王国だった。後にビルマ族がヤンゴンなどに進出しても、モン族の僧がゐるなど共存してきた。実はここ数年、恐ろしいことに気付いた。民族共存を破壊するものは民主主義と云ふ名の多数決である。
欧州では、第一次世界大戦、第二次世界大戦、イスラエル建国、ソ連と東欧の崩壊で、膨大な民族追放、民族移動が行なはれた。その上で築いた多数決をアジア各国に押し付けると、大変なことになる。パレスチナではさうなって久しい。多数決ではない民族共存の民主主義を、アジアから広める必要がある。
過去四仏を上座部仏教でも祭ったことを、この本で初めて知った。また過去の遺物で獅子像チンテ。バラモンの影響だらうか。
ピュー族の国が九世紀まで栄へたが、タイ族によって滅亡し、ピュー族は十三世紀頃までゐたが、ビルマ族との婚姻で次第に消滅した。そのためピュー族の碑文は解読が難しいさうだ。
ベコーのシェーターリャン大横臥仏から歩いて5分のところに、第五十五師団慰霊碑がある。伊藤さんは
日本人はぜひとも、御参りしていただきたい。
昭和六十年代まで、これは普通のことだった。その後、日本は悪くて英米仏は正しいみたいな変な主張が出て来た。
七月十六日(月)その二バガン仏跡
バガンには膨大な遺跡がある。第二編バガン仏跡は、書籍の半分を占める膨大な量のため、途中で前に進むのが苦痛になるくらいだった。この本は各編ごとに、写真、本文、作図とあり、本文を読むときは一つごとに写真や作図のページに移動しなくてはならないためである。勿論その膨大な資料には心から敬意を表する。
本生話の彫刻画が多数。十一世紀と思はれる仏足石。過去の遺跡で獅子像チンテ、神々の像、ナッ神の像、天女の絵。菩薩図は大乗仏教の影響か。これらは全体のごく一部にある特異の写真で、残りの大部分は釈迦像と仏塔である。
七月十六日(月)その三上ビルマ仏跡
第三編上ビルマ仏跡は、マンダレー、サガインなどだ。マンダレーが首都だったのは二代の王、二十六年間だけだった。既に下ビルマを併合したイギリスは、全ビルマを併合してしまふ。その前にミンドン王は第五回仏典結集を行った。
サガインでは次の逸話が載ってゐる。カウンムードー・パゴダで
一九九〇年代後半、この大仏塔境内に、一人の老婆(おばさん)がいた。巡礼に来た日本人に向けて、第二次世界大戦中の日本兵から習った、という日本の日本の歌をうたってくれる。それを聞いた訪問者は、だれしもが、胸をあつくしたものである。(中略)三曲、日本の歌をうたってくれて、そのうちの一はょく、「兵隊さんよ、ありがとう」は、心にしみいり、いまだに忘れられない。
七月十六日(月)その四ラカイン仏跡
第四編ラカイン仏跡は、かつてアラカン地方と呼ばれた。アラカン族と呼ばれたラカイン族は、ビルマ族の支族ださうだ。
最後に伊藤照司さん著「ビルマ仏教遺跡」を観て感じたことは、信徒に広がる釈尊信仰と、比丘による釈尊と同じ修行。この二つが合はさったたことで、上座部仏教が二千五百年間続いたと確信した。
ミャンマーのあちこちに炎天下や熱帯雨の中を旅行しなくても、この本を観れば多くの遺跡を理解できる。実に便利で有意義な本だ。伊藤照司さんの長年の努力に心から感謝をする次第である。(終)
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