千百五十八 1.旅の思ひ出(糸魚川)、2.昭和39年の時刻表を見る(中央東線、房総東線・西線、総武本線、成田線)
平成三十戊戌
六月二十四日(日)
私にとり一番印象に残る旅行は、糸魚川と佐倉だ。糸魚川はルートインに宿泊した。鉄道の上を陸橋で超える道路のすぐ脇だった。駅近くの酒屋で酒を購入したことも覚へてゐる。今でこそコンビニで酒を販売するが、当時は宿泊地に着くとまづ酒屋を探した。佐倉は翌日成田空港からの飛行機が早いので、安いところを見つけて3000円台で宿泊した。佐倉の翌日、どの国に行ったのかまったく覚へてゐない。

私のホームページのファイルはすべて、パソコンにもコピーしてある。バックアップの意味もあるが、変更するときはパソコンの「メモ帳」を使ふからだ。これらのファイルが入るフォルダーに対して「糸魚川」で検索を掛けると、六つファイルが検索される。古い二つはメモ帳で開いても文字化けする。EUCコードのためだ。
これらは右クリックで「プログラムから開く」を選び、表示されるブラウザのうちどれか(今回はGoogle Chrome)を選ぶと表示される。表示はされるがブラウザだから変更ができない。
表示させた内容を読むと、糸魚川に行ったのは平成十六年、今から十二年前だと判る。

六月二十四日(日)その二
昭和四十九年に、急行白馬1号が信濃大町から糸魚川、白馬2号が松本から富山と記憶してゐる。インターネットで調べると、1号は正しいが、2号は金沢まで行くやうだ。
昭和40年頃まで新宿から松本まで準急(または急行)アルプス、白馬、穂高と3つあった。同じページを見ると白馬は新宿から糸魚川で、松本止まりの車両もあった。なるほど小学校低学年だから糸魚川まで行ったことは知らなかった。
小学校高学年のころアルプス、白馬、穂高はアルプスに統合された。電化され行先も南小谷までになった。

七月一日(日)
ルートインは気に入ったので、翌年に確か東北地方を旅行したときも利用した。しかし枕が濡れてゐた。前泊者が頭を拭かずに寝たやうで、カバーは交換しても中に水が染み込んだままだ。フロントに電話を掛けて交換してもらった。
どんな商売でも、大きくなると初心を忘れがちだ。ルートインは全国に展開し始めたので、仕事がおろそかになったと感じた。これ以降、ルートインは一回も利用しなくなった。別の理由も考へられる。私は安いところを利用する。ルートインは値上げをしたのか検索に引っ掛からなくなった。

七月七日(土)
図書館に昭和39年10月の時刻表が展示されてゐる。東海道新幹線が開通する月だ。貸し出しは出来ないが、館内で見ることはできる。
私は鉄道オタクではない。だから鉄道博物館に一回も行ったことがない。消えゆくものを後世のために記憶しよう。さう思ふから、まづ路面電車を調べた。路面電車が一部を除いて全廃になったあとは、国鉄の客車を調べた。
今回は時刻表があるので、まづ中央東線の客車列車を調べた。この当時は甲府まで電化されてゐた。だから甲府までの電車、甲府からの気動車の合間を縫って走行する客車列車である。
新宿発松本行きが3本、新宿発長野が3本、新宿発辰野・上諏訪が各1本。八王子発塩尻、高尾発甲府、塩山発甲府が各1本。

八王子発は八王子駅の洗車線、八王子客貨車区の検査だらうか。塩尻着は塩尻客貨車区の検査だらうか。そんなことをまづ考へた。このとき急行白馬は糸魚川行き。松本から先の大糸線は準急で、夜行で朝、松本に到着した白馬2号は信濃森上から各駅停車、午後に到着した白馬1号は終着駅まで準急で、豊科、信濃大町、信濃四ツ谷、南小谷、平岩に停車。
白馬岳は正しくは「しろうまだけ」と呼ぶ。ところが列車名は「はくば」だから変な読み方が広まった。国鉄の傲慢と言ってよい。その後、北安曇郡の神城村と北城村が合併して白馬村(はくばむら)となった。信濃四ツ谷駅は白馬(はくば)駅と改称された。私の母(松本出身)が、地元では「はくば」と読むのに、東京の人間は「しろうま」と読むと言っていたが、その理由はここにある。
松本電鉄上高地線に島々(しましま)と云ふ駅があった。その後、土砂崩れか何かで廃止になり、一つ手前の赤松駅を新島々駅と改称した。バスターミナルを赤松に作ったせいもあった。母が、島々を地元では「しまじま」と読むのに東京の人は「しましま」と読むと言っていた。松本電鉄が「しましま」とフリガナをつけるから東京の人はさう読むだけだ。私の母は結婚して東京に出て来る前は松本電鉄に勤めてゐたのに、地元では電鉄関係者も読み方が正式名と違ふみたいだ。
まだある。信濃森上(しなのもりうえ)駅を松本の住民は「しなのもりかみ」と読む。この当時は信濃森上まで電化だったから、松本から信濃森上行きが多かったはずだ。それなのに読み方が違ふのは不思議だ。

七月八日(日)
今回時刻表を見たのは中央東線と大糸線だったが、前回来たときは千葉県内を見た。佐倉駅に配車を待つ従来客車が多数留置され、それとは入れ替はりに12系が6両常備になった。このときから佐倉駅常備の客車には注目してゐた。昭和39年当時は
房総西線 千葉発館山2本(汽)、両国発館山1本(汽)
房総東線 両国発勝浦1本(汽)
総武本線 千葉発銚子3本(汽)、千葉発佐倉1本(汽)、両国発銚子1本(汽)
成田線  成田発銚子1本(汽)、千葉発成田1本(汽)
成田線 我孫子発成田3本(汽)、上野発成田1本(汽)

(汽)は蒸気機関車が牽引する客車だ。時刻表の先頭には、列車番号で電車はM、気動車はD、番号だけは蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車の牽引する客車と説明があるものの、番号だけなのに(電)や(気)の印のある列車がある。例へば大糸線の信濃大町以南はほとんどがMの電車だが、わずかに番号だけで(電)の付いたものがある。多くの線にある。或いは客車を電車に置き換へて時間も調整し(電車のほうが早い)、しかし列車番号はそのままかも知れない。
今回、「2.昭和39年の時刻表を見る」の特集を組んだ理由は、幹線には客車列車が少数だが存在し、あたかも連絡網だった。荷物車を連結するためと、客車や気動車を常備駅から別の常備駅或いは工場に回送するためだ(と思ふ。国鉄関係者に訊かないと本当の理由は判らないが、これ以外に考へられない)。客車や気動車の回送は、貨物列車に連結する方法もあった。
房総西線、房総東線は昭和47年頃に内房線、外房線と改称された。その前まで、急行「内房」「外房」があり、「ないぼう」「がいぼう」と読むのが正しかったと思ふ。あの当時はさう読んだし、例へ国鉄がその後、違ふ読み方をしたとしても、それは「白馬」と同じで国鉄の傲慢と云ふものだ。国鉄崩壊の原因は、この当時の傲慢にあったと私は見てゐる。(終)

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