千百四十七(その三) ケネス田中さんの著書を読む(真宗入門)
平成三十戊戌
六月三日(日)
ケネス田中さんの著書「真宗入門」を読み、その優れた内容を紹介したい。この本は英語で書かれ、日本語に翻訳された。アメリカ人向けに書かれたから、曖昧な説明では納得してもらへない。だから質問に回答する形式は説得力がある。例へば
ナーガールジュナ(龍樹)は大乗仏教の偉大な思想家ですが、彼は「空」を説くことが多いですね。

の質問に対し
(前略)ナーガールジュナとその中観学派の弟子たちは偉大な貢献をしたのですが、彼らは他のもう一面である悟りの世界の宇宙的実存性(reality)については多くを語りませんでした。しかし(中略)『法華経』『涅槃経』『華厳経」などの大乗経典の一大テーマとなっているのです。(中略)ナーガールジュナが全仏教の代表と考える必要もないのです。事実、ヨーガ行派、もしくは唯識学派と呼ばれるもう一つの大乗仏教の哲学が、ダルマカーヤ(法身)、あるいは一如という教義で悟りの世界の実存性を表してバランスを取っているのです。

法身については前に増上寺の法話の後の茶話会で、常連さんが浄土宗の阿弥陀仏はxx身(法身、報身、応身のうちどれか)だが、浄土真宗はxx身では、と質問されたことがあった。私は仏を三身に分ける意味が無いと深く考へなかった。今回ケネス田中さんの著書を読んで、人生で初めて(ここは事実を書いただけだが、ケネスさんへの最大の賛辞でもある)法身を調べた。次に
浄土とは場所(place)なのですか、それとも状態(state)を指すのですか?

場所として描かれてはいますが、本当は状態のことなのです。
これもアメリカ人に対しては的確な回答だが、日本人は「場所(place)なのです」を好む気がする。もしアメリカ人が「場所は変ではないですか」と質問したら「時空を超えた場所です」と説明し、アメリカ人と日本人の感性の違ひを吸収する。

六月四日(月)
読経は瞑想ではないのでしょう?
私の考えでは読経は禅、とりわけ曹洞宗の瞑想と似たはたらきをするものだと思われます。曹洞宗では座禅はそれ自体が悟りへの直接の因とはならず、むしろ瞑想は悟りの表現として理解されています。
ここは100%同意見だ。私は読経に限らず、全ての宗教の儀式は瞑想の一方法だと考へてゐる。ケネスさんの著書は浄土真宗を紹介する目的だから他宗教に触れてはゐないが、思想は同じだ。
座禅自体が悟りの直接の因とならないとするところも思想が同じだ。上座部仏教で云へば、僧侶は戒律禅定智慧と日常の儀式と信徒への説法が悟りの表現だ。一方でパーリ経典には悟りの各段階が書かれるが、悟りは瞑想中に起きることも、読経中に起きることも、日常の生活中に起きることもあると私は考へる。そこがスマナサーラ長老と私の違ひだが、ケネスさんと私は100%一致する。

六月五日(火)
私はケネスさんと感性が似てゐる。さう思ったのは、この本が金子みすゞの詩を引用するところだった。もう一つ類似を感じさせる応答があった。
(前略)仏教の視点から、全世界に及ぼす深刻な環境問題をどう考えるべきでしょうか?

まず言えることは、アメリカでは仏教が環境にやさしい宗教とされていて、仏教と環境に関する本がかなりたくさん出ています。(中略)このように仏教が注目される理由の一つには、仏教には「縁起」(interdependence)を中心とする世界観があるからです。(中略)アメリカは世界の約五パーセントの人口でありながら、世界の約二十五パーセントの二酸化炭素を排出しています。
これも100%同感だ。懇親会のとき浄土真宗とは無関係の方だと思ふが「あなたの最終目的は何ですか」と訊かれた。私が熱心に仏教(或いは全宗教)の復興を考へてゐるその最終目的だ。そのときはとっさだったので、長く続いた伝統のどこに価値を見出すかを探すことだと思ひます、と答へた。とっさでなくてもこの答は完璧だ。しかし判り易く、しかも現在の地球の課題に当てはめて、人類による地球破壊を防止することです、と答へれば判り易かった。
仏教の最終目的が解脱にあることについて、私はこれ自体が瞑想方法だと思ふ。当時のインドでは解脱を目指すことは最終目的として最適なものだった。現在では環境破壊による繁栄とは云へ、解脱が目的ですと答へたのでは、瞑想方法としても最適ではないかも知れない。勿論、解脱とは生死を超え更にすごいものなのだから、今でも当てはまるのだが。
私は人類がどんどん解脱することで地球破壊を防ぐことは有りだと思ふ。釈尊もそこまで考へたと思ふ。その一方で浄土真宗の、浄土から再びこの世に還る思想はすばらしい。ケネスさんの本にも書かれてゐる。(完)

追記六月六日(水)
一旦終了したものの、あと二つ重要な問答があったので追記したい。一つ目は
阿弥陀仏の仏像は偶像(idol)ではないのですね。

その通りです。仏像自体に呪術的な力があると信じれば偶像になりますが、そうではないのです。だからこそ私たちは仏像に対して個人的な祈願をしたりはしないのです。
仏像は私たちが深い宗教的感情を起こすのを助けてくれます。

これも100%同感で、スマナサーラ長老も前にそのやうな説法をしてホームページに載ってゐた。100%同感なのだが、仏像に金箔を貼ったり、高僧が来たときに自宅の仏像をいっしょに祭って開眼供養みたいなことをしてもらったりする(既に開眼されてゐるから開眼供養では無いが)熱心な信者は伝統文化として尊重しなくてはいけないと、常日頃思ってゐる。
伝統文化について掘り下げると、大乗仏教は非仏説だとしても伝統文化として尊重すべきだし、浄土真宗は法然から独立した異端派だとしても伝統文化として尊重すべきだし、上座部仏教も初期仏教とは異なるとしても初期仏教の伝統を一番保持するものとして尊重すべきだ。私は、長く続いたものにはその理由があり、特に地球滅亡寸前の今となっては長く続いたものは続いた理由を探求すべきだと考へる。
仏教徒の多くが社会問題に消極的なのは、アジアの政治制度に主原因があるとおっしゃるのですか?

はい、でもすべてではありません。(中略)慈善活動は、他の人よりよい人間、優れた人間になり「優越感を味わいたい」という慈善活動家の欲望が動機となっていることが、時としてあることを多くの仏教徒が反省し理解しています。(中略)もし私たちが特定の個人やグループに対し偏見を持ちつつ慈善活動をするのであれば、私たちの行為は、否定的な見方から自由になった時ほどには効果的にはなりません。
これも100%賛成だ。特に西洋かぶれの日本人がアジアを蔑んだ目で見ることが、米ソ冷戦の終結後は多くなった。日本の反省点である。

全宗教(百六十三の二)全宗教(百六十三の四)

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